今こそ90年代〝鬼畜系〟サブカルチャーを再考する意義がある―村崎百郎とインターネットの切断線を中心に
鴇田義晴(フリーライター/批評家)
この原稿の冒頭、私が村崎に惹かれた理由として相反する人格を宿す姿を挙げた。拙論はフリーライターとしての村崎、小説家としての村崎、さらに本名の黒田一郎と異なる名義で書かれたテキストを取り上げている。村崎の人物像のような複数の要素が絡み合い、交雑する場に私は惹かれる。90年代の鬼畜系サブカルチャーとインターネットの関係もそうしたものだった。
鬼畜系は90年代出版バブルの最末期に生み出された。同時期にインターネットが台頭し両者はまじわりを見せた。一部は接続し、村崎の言葉は切断された。その結果は何をもたらしたのか。
村崎のテキストが記された90年代の出版物は現在も残されている。対して2000年前後のインターネットのデータはほとんどが消失している。当時、数多あった個人サイトの中には鬼畜系の影響を受けたものも少なくないと思われるが、現在により近い20年前のネット情報が散逸し、より過去である30年前の出版物が残る現状が実証を困難とする。
フィジカルに拘泥しネットとの接続を拒んだ村崎の感覚は正しかっただろう。ならば、ネット空間で散逸せず、生き残った村崎の言葉はどう扱われるべきか。村崎は『鬼畜のススメ』で「己の欲望に忠実に、徹底的に利己的であれ」と記した。この利己的な言葉とふるまいこそ、今の時代に必要なものであるように思う。
先に触れたように、村崎はネット空間で「言語ウィルス」が悪意を持ち増殖していると批判した。バロウズは「言語ウィルス」の支配から逃れる手段として、既存の言葉を切り刻み並べ替えるカットアップを試みた。そこでは理路整然とした原文が「異常」であり、カットアップ後に生ずる滅茶苦茶なテキストこそが「正常」となる逆説が生ずる。これはネット上にあふれる無味乾燥なテキストと、村崎の支離滅裂なテキストとの対比にそのまま当てはまらないだろうか。浮遊するネットの言葉の軽さと、肉体を伴った村崎の言葉の重さの質的な違いは明瞭である。
村崎の言葉は暴論と極論に埋め尽くされ、徹底的に利己的でジャンクでノイジーであり、多分の逸脱を内包していたからこそ「言語ウィルス」の支配から逃れ、90年代に社会とのズレに悩む少なくない人々に救いを与えた。ならば、生活のすみずみまでネットが繋がり、空疎な言葉があふれるバーチャルな空間をさまよう現代に生きる私たちも、身体性を伴った自らの言葉、意思、生存を取り戻すために村崎の言葉を必要とするのではないか。村崎は鬼畜を「人非人的な行為」ばかりでなく、本質として「他人に一切配慮せず自分の好きなことを貫く」とも定義している(※11)。村崎の言う鬼畜とは利己的なふるまいとイコールなのだ(※12)。
90年代に鬼畜系が問いかけた内容は現在も地続きのものとして存在する。鬼畜系は過去の負の遺産ではない。だからこそ村崎の言葉は現実空間に根ざしたアクティブなものとして扱われるべきだ。さらに鬼畜系に対しネット炎上の遠因のような負の評価を与え、すべて悪と見なし排除するのではなく、良質な部分を抽出し、現代社会の処方箋として援用する試みも必要だろう。鬼畜系は毒にも薬にもなる。それこそ「言語ウィルス」が実在するならば、村崎のテキストはそれに対抗するワクチンともなりうるだろう。鬼畜系を捉え直し、出会い直すために90年代末の交雑に今あらためて目を向けるべきである。
著者情報
フリーライター/批評家
鴇田義晴
ときた よしはる
1982年、千葉生まれ。「90年代サブカルチャーと倫理:村崎百郎論」で「2022すばるクリティーク賞」受賞。そのほかの論考に「蒼空と革命:見沢知廉論」(「すばる」2023年2月号)。『中央公論』(中央公論新社)、『SPECTATOR/スペクテイター』(エディトリアル・デパートメント/幻冬舎)などにも寄稿している。