「安全に狂う方法」と、「狂った世界」で壊れずに生きる策
雨宮処凛(作家、活動家)
そのような状況から広がったのは、当然のごとく、萎縮だ。自分が書き手だからこそよくわかる。あ、この人のこの書き方、炎上恐れてるやつだ。書かなくていい注釈や言い訳ばかり並べて切れ味めっちゃ悪くなってる、等々。そういう炎上対策が施された文章を読むたびにどこかシラけるけれど、気がつけば自分だって時にそうしている。それしか、自分を守る方法がないから。炎上した時、誰も助けてくれないことを嫌というほど知ってるから。
そんなことを書くと、「差別もヘイトもなんでもありのひどい時代に戻りたいのか」という声が聞こえてきそうだが、90年代鬼畜系サブカル的なものがよかったなどと言うつもりは毛頭ない。ただ、「正しくないもの」の居場所が極端になくなると、病む人間が必ず出てくる。厳しく規制して地下に戻るほどにその対象が危険になることは歴史が証明している。
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一方で、書き手である私自身にも「正しさ」が押し付けられる。SNSという距離感がバグる場所で、無遠慮に投げつけられる言葉たち。「正しさ」だけではない言いがかり的なものまでをも膨大に浴びているうちに、私の「とらわれ」はより強固になっていった。以下、これまでSNS等で投げかけられたものだ。
“ペットボトルの水を飲むなんて意識が低い”(すみません)。
“肉を食べるなんてありえない、なぜベジタリアンでないのか”(なんと言えばいいのか……)。
“タバコ吸うとかクズすぎる”(もうずーっと前に禁煙しましたが、別に喫煙者をクズとは思いません)。
“もっとパレスチナの虐殺について発信・行動しろ”(できる範囲でデモの呼びかけ人になったり参加したりそれを記事にしています)。
“貧困問題についてあれこれ言うなら自分の家でホームレス引き取れ”(そういう問題じゃないですよね?)。
“かわいそうな動物を救え”(と言われましても……)。
“○○の事件(国内外のあらゆる事件が入る)の被害者の支援をしろ/するな”(自分で決めます)。
“外国人排斥デモについて文句を言うならお前が外国人のゴミ捨て場の掃除をしろ”(どうしてそうなる?)。
“今SNSで話題の○○についてどう思うか態度を今すぐ表明しろ”(私はSNSで話題のあらゆることに反応してコメントするという契約を誰とも結んでいない上、年間5億円支払われてもそのような依頼はお断りします)、等々。
この他、ありとあらゆる種類の罵倒や容姿、年齢などに対する中傷がついてくる。
よく、SNSでバズった人がその反応に驚き、「著名人のメンタルえぐい」などと書いているが、私のような超小物でさえ、日々これほどの言葉を浴びているのだ。
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と、ここまで書いてきて見えてきたものがひとつある。私に「世界の悲劇」についてなんとかしろという声は、SNSにより地球の裏側の悲劇まで見えるようになった現在、その不条理さに耐えられなくなった人たちの悲鳴にも思えてこないだろうか。
例えば私たちは、遠く離れた県の保健所で、数日以内に殺処分予定の犬の姿さえスマホで目にする日常を生きている。SNSによって、「知らないで済んだこと」は急激になくなった上、私たちは不条理に敏感であることは良きことという教育を受けてきた。が、人類にとって、世界中の悲劇がこれほど可視化されるという事態は初めての経験だ。「正しい」人間であろうとするほど、スルーできないことが増えていく。そしてSNS上では「見て見ぬふりをする人間は卑怯」という正義を振りかざす人が多くいる。この辺り、何か大きなものが隠れていそうだ。
もうひとつ、書きたい。この数年で私はさらに人が怖くなったのだが、それは「コロナ禍によるオンライン化」による。これまでリアルに行なっていた講演をオンラインですることが増えたのだが、その場合、対面だと決してありえないような攻撃的なコメントを書き込む人が増えたのだ。質問や意見として、「あなたが話した○○について、そんなことは聞いたことがないのでエビデンスで示しなさい」など高圧的なものもあれば、人格を否定するようなものまで。これは対面の講演では決してなかったことだった。何か、生身の人間ではなくコンテンツのひとつとして厳しく評価・チェックされているのを感じるのだ。こんなことに傷つく自分がおかしいのかと思っていたけれど、時々一緒に出演する学者や記者といった人々は私以上に傷ついていたりして(私よりネットで暴言を受ける機会がないため)、やっぱりそうだよね? 私、傷ついておかしくないんだよね? と改めてほっとする。そういう経験をするたびに、人類、たかがインターネットくらいでここまでわかりやすくヤバくなってどうした? と思う。
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あと少ししたら、ここまで書いたような現象のひとつひとつが名付けられたり、明確に加害行為とみなされたりしてハラスメントとして広く認知されるだろう。そう思うと、なぜ、みんなこれほど無防備に、デジタルタトゥーで未来の自分を殺す行為をしているのだろうと心配になるほどだ。
さて、『安全に狂う方法』について書いていたら、SNSによって狂った世界で殺されない方法みたいな話になってしまったが、それが私の今の「とらわれ」なのだから仕方ない。
インスタントに救われるような本じゃない。だけど、藁にもすがる思いでこの本を手にとった私は、読んで考え文章を咀嚼し読み返し、という過程で、何か生まれ変わるような経験をしつつある。少しずつ、「とらわれ」が薄れていっているのだ。
赤坂さんの苦しみと読者の苦しみが唯一無二の化学変化を起こすような本。不思議な読書体験の余韻に、今も浸っている。