酒、猫、推し、思想……。生誕半世紀を前にして、自らの依存遍歴を振り返る
雨宮処凛(作家、活動家)
少し前、作家の中村うさぎさんのインタビューを依存症専門オンラインメディア「Addiction Report」(公益社団法人ギャンブル依存症問題を考える会)で読む機会があった。
中村うさぎさんと言えば、買い物、ホスト、整形と依存先を次々と変えて突き進む姿が注目されてきた人。そんな中村うさぎさんのインタビューが面白くないわけがない。
4回にわたるインタビューのタイトルは、「『あの時の気持ちよさが忘れられなかった』水道料金や税金を滞納してまで買い物にハマった理由」「1000万円踏み倒し…それでも金策に追われる日々だけが与えてくれた『生きる実感』」「買い物依存は『底尽き』もホスト狂いで溶かした3000万円、『私が欲しかったのは愛だった』」「『私の人生は全てパロディ』その真意は? 美容整形で抜け出したホスト狂い」など、こうして並べるだけですでにお腹いっぱいである。SNSを開けば、ホストや整形にハマる女子を目にしない日はない令和の今、うさぎさんはいろんな欲望を先取りしていたんだなぁ、と思う。もしくはそれらは、女子の欲望として普遍的なものなのかもしれない。
そんなうさぎさんからもう20年くらい前、電話がかかってきたことがある。
きっかけは、私が当時着用していたゴスロリ・ロリータの服。うさぎさんにそのような服がどこで売っているか聞かれたので、「新宿のマルイワンに売ってる」とお伝えしたのだ。その数日後、うさぎさんからはゴスロリ・ロリータ服を「13万円分買った!」と報告があり、「さすがショッピングの女王!」と感嘆した。
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そんなうさぎさんの赤裸々すぎるこれまでの遍歴についてはぜひインタビュー本文で読んでほしいのだが、それを読んで私自身、今までの「依存」について振り返りたくなった。来年(2025年)で50歳。もう半世紀生きてきたのだからそんな機会があっていいだろう。
さて、私の「初依存」と言えばやはりこれを抜きには語れない。ヴィジュアル系バンド(以下、V系バンド)である。10代半ばから今に至るまで、数多くのバンド、ミュージシャンにハマり続けてきた。彼らを神と崇め、世界中で自分のことをわかってくれるのはこの人だけ! と思い込み(複数人に対して)、自分を傷つける世界を遮断するように、イヤホンをして爆音でその世界にどっぷりと浸かっていた。そこまでハマったのは、中学時代に受けたいじめによる。全存在を否定され、死ぬことばかり考えていた時に私を救ってくれたのだ。
ある時期からは、ライヴにも行くようになった。北海道にたまにV系バンドがツアーでやってくるのだ。そんな時は熱烈なファンの子たちが当たり前のように「追っかけ」していて、私もその中に混ざった。そんなことを繰り返していると、それほどメジャーなバンドじゃなければファンがバンドメンバーの打ち上げに参加できることを知り、参加するようになった(1990年代の話。今はそういうシステムは基本ないと思う。また、当時は居酒屋に入るのに年齢確認などもなかったので10代でも入れた)。
そんなファンの中から、「雲の上の存在」であるメンバーに気に入られる子がいることを知った。いわゆる「オキニ」(お気に入りの略。その反対は「オキラ」)だ。そういう子はみんなから羨望の眼差しで見られていて、その場にいたほとんどの子が「自分もそうなりたい」と思っていたように思う。私もそう思ってた。そうなれば、自分をいじめた人間たちに復讐できるくらいに思ってた。まったく全然関係ないのに、損なわれた自尊心を取り戻せるような錯覚をしていたのだろう。
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ある日、それが叶えられた。「オキニ」になれたのだ。といってもちょっと特別扱いされたり文通(!!)したりするくらいだったのだが、この時のことを表現するなら、中村うさぎさんが初めてシャネルの60万円のコートを買い、羨望の視線を浴びた瞬間の高揚感と通じるだろう。
放出されるとてつもない量の脳汁。それを10代で経験してしまったのだ。学校の世界はいじめでこりごり、親とはいつも「ライヴに行くな」「絶対行く」という喧嘩ばかり。世界のどこにも居場所がないと思っていた10代にとって、それは強烈な体験だった。
このことで、私はそれまでとは違う「ハマり方」をした。もう一度、あの高揚感・優越感を体験したい――。ライヴより何より、そっちに魂を持っていかれてしまったのだ。あの、狂おしいほどの思いは依存症に通じるものだと思う。
それでも、北海道にいた高校時代までは、渇望感はそれほどなかった。なぜかと言えば、「そんな奇跡は滅多に回ってこない」からである。これがお酒やギャンブルや薬物や買い物など、「お金を出せば手に入れられるもの」だったらどっぷりハマっていたかもしれない。が、私が欲しかったのはいくらお金を積んでも手に入らないものだった。
それが高校を卒業して上京してからは、歯止めがきかなくなった。ライヴに行きまくるようになったのだ。もちろん打ち上げにも行きまくる日々を送ったのだが、私はこの時期、確実に依存状態だったように思う。
とにかくメンバーに気に入られたかった。「オキニ」になれなければ自分は徹底的に無価値だと思ってた。周りの友人たちも同じような子ばかりだったから、そんなにおかしいと思わなかった。
あの頃、私の中にあったのは、自分を認めて欲しい、必要としてほしい、あわよくばすべて受け入れて愛してほしいというありきたりすぎる思いである。一般男子――少なくとも3B以外の男子(美容師、バーテン、バンドマン以外の男子)――に振り向ければそこそこ叶えられたかもしれないのに、「絶対に叶えられない相手」(でも頑張れば一瞬は相手にしてくれるかも、みたいな存在)に求めていたのだから自ら不幸に飛び込んでいるようなものだ。だけど手に入りそうで入らない上、ライバルがはっきり見えるような関係性だからこそ、沼った。このあたり、もしかしたら昨今の「ホス狂い」とも共通する部分があるのだろうか?
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とにかく、当時の私はそういう日々を送りつつリストカットまでしていたのだから「量産型」という言葉しか出てこない。当時は本気で苦しいと思ってたけど、これではわざわざ不幸に不幸を上塗りしにいっているようなものではないか。一方、自分が苦しい理由をなんとか「恋愛的なもの」に置き換えたかったのかもしれないとも今になって思う。
そんな当時のことを、後悔はしていない。あの頃の私には、そんな自傷的な日々は必要で、それでなんとか生き延びたと思うからだ。 安定とか将来とか、優しくて誠実な彼氏とか、そんなものは1ミリも求めていなかった。人間には「正しさ」とは無縁の季節があると知っているから、私は「ホス狂い」などを頭ごなしに否定する気にどうしてもなれない(もちろんひどい搾取をする側が非難されるのは当然だが)。本人こそが異常さの中にいることを充分に自覚しているのだ。だからこそ、「異常」と言われれば言われるほど、汚れた自分はもうそこにしか居場所がないのだと固執する。私自身、そんな時期を通して失ったものは多くあるけれど、あの時期にしか得られない最高に甘美な瞬間も知っている。そしてその記憶は、時に人の命を救うくらいの力がある。しかし、あの頃の自分を知っている人とは二度と会いたくはない。そんな季節。
22歳、私はそんな状況から脱したのだが、きっかけは右翼団体に入会したことなのだから穏やかではない。そう、次の依存は「思想」だったのだ。なんだこれ、自分で書きながらびっくりだが、一言でいうとここまで書いたような日々に飽きたのである。
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そんな私がライヴハウスの代わりに通うようになったのは、当時できたばかりのトーク居酒屋「ロフトプラスワン」(東京都新宿区)。90年代当時、そこでは連日のように右翼や左翼などをゲストにイベントが開催されており、多くの文化人と知り合うことができた。これは何度も書いているが、そんな中で出会った作家の見沢知廉氏(故人)は突然、「お前のように何者でもない人間は革命家になるしかない!」と言って私を右翼団体にブチ込んだのだ。