第1回 耽美派が古典に魅せられた理由
大野露井(翻訳家/小説家)
外国語としての古典
まだ一冊しか小説を発表していないので、小説家を名乗るには面映さがある。翻訳は四冊やっているから、翻訳家を名乗ることは許されるだろう。少年たちを集めた「黒ミサ」を決行して収監されたジャック・ダデルスワル=フェルサンの『リリアン卿 黒弥撒』とか、究極の愛ゆえに相手を文字通りに食べてしまうチェンティグローリア公爵の『僕は美しいひとを食べた』とか、あまり人に知られない小説を訳すことに愉しさを感じている。
小説を書いたり翻訳をしたりするときの大野露井という名前もそれなりに変わっているが、本名の大野ロベルトもめずらしい名前には違いない。日系人の多い外国へ行けばいくらでも出会えそうなのに、未だ同姓同名の知り合いはいない。本名でも学術書の翻訳をやるが、研究しているのはあくまで日本文学、それも主に古典である。
しかし少年時代から古典に関心があったと言えば噓になる。中等教育までを主に英語で受けた私にとって、古典とはもっぱら西洋のそれを指した。なかんずく、中学からしつこく読まされたのはシェイクスピアである。
現代英語の基礎になったと言われるだけのことはあって、シェイクスピアの英語は半ばまで現代語である。単語は大部分がいまと変わらない。違うのは人称の代名詞で、youではなくてthouと言う。すこし動詞の活用めいたものもあって、例えば眼前を通りすぎるものが単数ならpassではなくてpassethと言う。何かを思いついたときにはI thinkと言う代わりにmethinksと言うが、そのくらいなら二十世紀のリヴァプール出身のビートルズだって言うから、さほど奇異ではない。登場人物が退場するときのト書きにexitではなくてexeuntと書いてあるから何だろうと思うが、なるほど二人以上の人間が退場するときには語形が変わるのだな、と辞書など引かなくてもすぐにわかる。
そんなわけだから、シェイクスピアを読むことはあまり大きな挑戦とは言えない。確かにシェイクスピアの戯曲はすばらしいが、そのすばらしさの一端は読むのが簡単なところから来ているのではないか、とさえ思う。少なくとも明治の勤勉な文学者たちにとっては、シェイクスピアを読みこなし、沙翁と名付けて手なずけるくらい、朝飯前だったろうと思う。
ところがその明治を生きた人々が、それこそ大正に入ってから発表したくらいの作品でないと、現代の日本人には読みづらい。現代の英語と変わらないものは四百年まえからあるのに、現代の日本語と変わらないものは百年くらいまえからしかない。えらい違いである。
試みに、三百年まえの日本語を見てみよう(残念ながら四百年まえとなると、まだ戦国時代の名残で文学も荒廃しており、これという作品がないのだ)。シェイクスピアが没してから半世紀後の日本には、近松門左衛門という、資質の点でも嗜好の点でもシェイクスピアの生まれ変わりではないか、と言いたくなるような芝居の作者がいた。だがいざ読んでみようとすると、こんな文章にぶつかる。
小説を書いたり翻訳をしたりするときの大野露井という名前もそれなりに変わっているが、本名の大野ロベルトもめずらしい名前には違いない。日系人の多い外国へ行けばいくらでも出会えそうなのに、未だ同姓同名の知り合いはいない。本名でも学術書の翻訳をやるが、研究しているのはあくまで日本文学、それも主に古典である。
しかし少年時代から古典に関心があったと言えば噓になる。中等教育までを主に英語で受けた私にとって、古典とはもっぱら西洋のそれを指した。なかんずく、中学からしつこく読まされたのはシェイクスピアである。
現代英語の基礎になったと言われるだけのことはあって、シェイクスピアの英語は半ばまで現代語である。単語は大部分がいまと変わらない。違うのは人称の代名詞で、youではなくてthouと言う。すこし動詞の活用めいたものもあって、例えば眼前を通りすぎるものが単数ならpassではなくてpassethと言う。何かを思いついたときにはI thinkと言う代わりにmethinksと言うが、そのくらいなら二十世紀のリヴァプール出身のビートルズだって言うから、さほど奇異ではない。登場人物が退場するときのト書きにexitではなくてexeuntと書いてあるから何だろうと思うが、なるほど二人以上の人間が退場するときには語形が変わるのだな、と辞書など引かなくてもすぐにわかる。
そんなわけだから、シェイクスピアを読むことはあまり大きな挑戦とは言えない。確かにシェイクスピアの戯曲はすばらしいが、そのすばらしさの一端は読むのが簡単なところから来ているのではないか、とさえ思う。少なくとも明治の勤勉な文学者たちにとっては、シェイクスピアを読みこなし、沙翁と名付けて手なずけるくらい、朝飯前だったろうと思う。
ところがその明治を生きた人々が、それこそ大正に入ってから発表したくらいの作品でないと、現代の日本人には読みづらい。現代の英語と変わらないものは四百年まえからあるのに、現代の日本語と変わらないものは百年くらいまえからしかない。えらい違いである。
試みに、三百年まえの日本語を見てみよう(残念ながら四百年まえとなると、まだ戦国時代の名残で文学も荒廃しており、これという作品がないのだ)。シェイクスピアが没してから半世紀後の日本には、近松門左衛門という、資質の点でも嗜好の点でもシェイクスピアの生まれ変わりではないか、と言いたくなるような芝居の作者がいた。だがいざ読んでみようとすると、こんな文章にぶつかる。
庭も心も暗闇に、うち撒く油、流るゝ血。踏みのめらかし、踏み滑り。身うちは血潮の赤面赤鬼。邪見の角を振り立てて。お吉が身を裂く剣の山、目前油の地獄の苦しみ。
(近松門左衛門『女殺油地獄』)【註1】
(近松門左衛門『女殺油地獄』)【註1】
何を言っているのか、わかるような、わからないような、である。おどろおどろしく、血腥いことだけは確かな文句が、改行もなく、区切りも曖昧なまま、どこまでも続いてゆく。
はっきりしていることは一つだ。十代の終わりの私にとって、古典の日本語は、英語よりもよほど外国語であった。そして、少なくともその当時は、それを苦労して解読したところで、報われるとも思えなかったのだ。
はっきりしていることは一つだ。十代の終わりの私にとって、古典の日本語は、英語よりもよほど外国語であった。そして、少なくともその当時は、それを苦労して解読したところで、報われるとも思えなかったのだ。

シェイクスピアの生まれ変わり!? 近松門左衛門(提供:T.Morimatsu/アフロ)