第1回 耽美派が古典に魅せられた理由
大野露井(翻訳家/小説家)
耽美なる古典の発見
だいたい、古典など読んでいる暇はなかったのである。物心ついたときから英語より日本語のほうがずっと魅力的だとは思っていたが、日本の文学と言えば漱石・谷崎・太宰・三島と近代文学が圧倒的に好きで、その近代文学に大きな影響を与えているらしい西洋の文学にも急速に惹かれていった。
幸い、日本にはすばらしい翻訳が溢れていた。トーマス・マンの構築美も捨て難いが、折しも思春期、やはりボードレールの計算しつくされた狂気や、ランボーの投げやりなまでの美しさが胸に迫った。とくに小説ではエロティシズムを詩に昇華させたバタイユや、流浪の犯罪者たるジュネの迫力に打ちのめされ、一時期はサド侯爵の悪徳の哲学をひたすら貪り読んだ。いずれの作家たちも、自身の美学にかなった言葉のみをもって世界と対峙し、血まみれになって徒花を咲かせていた。こうした西洋の美しい文学が頂点にあって、それをうまく吸収しつつ日本語に還元できているものこそが優れた近代文学である、という結論めいたものにたどりついた頃には、いっぱしの耽美派を気取っていた。
しかし進学したアメリカの大学をさっさとやめ、日本の大学に入り直してみると、日本の古典に触れる機会もあった。
幸い、日本にはすばらしい翻訳が溢れていた。トーマス・マンの構築美も捨て難いが、折しも思春期、やはりボードレールの計算しつくされた狂気や、ランボーの投げやりなまでの美しさが胸に迫った。とくに小説ではエロティシズムを詩に昇華させたバタイユや、流浪の犯罪者たるジュネの迫力に打ちのめされ、一時期はサド侯爵の悪徳の哲学をひたすら貪り読んだ。いずれの作家たちも、自身の美学にかなった言葉のみをもって世界と対峙し、血まみれになって徒花を咲かせていた。こうした西洋の美しい文学が頂点にあって、それをうまく吸収しつつ日本語に還元できているものこそが優れた近代文学である、という結論めいたものにたどりついた頃には、いっぱしの耽美派を気取っていた。
しかし進学したアメリカの大学をさっさとやめ、日本の大学に入り直してみると、日本の古典に触れる機会もあった。
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
(小野小町、古今集、春下、113)【註2】
(小野小町、古今集、春下、113)【註2】
この歌は私に、すぐさまタゴールの次のような詩を思い起こさせた。
君 われを顧みず
み姿 見せずば
如何に 過ぐさむ 長雨
かくも降る間を
(タゴール『ギーターンジャリ』)【註3】
み姿 見せずば
如何に 過ぐさむ 長雨
かくも降る間を
(タゴール『ギーターンジャリ』)【註3】
だが小町はタゴールと違って、私の最も愛する言語で詩を作っているのだ。しかも、何という技巧だろう! 花の色は詠者の容色であり、歌を宛てた人物への思いの丈でもあろう。徒なる恋に身をやつすうち、長雨の降るようなやるせない世界で時を経ることを強いられ、身も心もすっかり古くなってしまう、そんな自分をただ眺めていることしかできないのだ。小町はすこぶるつきの美人だというが、それも歌がうまかったからこその評価なのだとすれば、恋と文芸に生きた古典の時代の人々こそ筋金入りの耽美派ではないか。

小野小町(写真:New Picture Library/アフロ)
それから講義で読んだのは『枕草子』である。「春はあけぼの……」ああ、確かに聞いたことがある。「つきづきし」という言葉が出てくる。これが「似つかわしく、調和のとれている様子」であることはすぐにはわからない。シェイクスピアのexeuntのほうがわかりやすいようだ。だが、よく見ると、「つく」が繰り返されているのだなと思う。なるほど、何かと何かがきちんと「ついて」いるのだとすると、確かに「似つかわしい」ということにもなるだろう。だんだん、言葉に血が通う気がした。
もっとも、一つひとつの言葉のなりたちなどは、所詮瑣末なことである。文学なのだから、文章の全体も見なければ、面白いかどうかはわからない。
もっとも、一つひとつの言葉のなりたちなどは、所詮瑣末なことである。文学なのだから、文章の全体も見なければ、面白いかどうかはわからない。
秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。
(清少納言『枕草子』― 春はあけぼの)【註4】
(清少納言『枕草子』― 春はあけぼの)【註4】
秋は夕暮、は現代語訳する必要さえない。ただ現代人は、秋は夕暮が一番いいとか、秋といえば夕暮だろうとか、そういう言い方をしてしまう。日本人は直言を避ける民族だ、というのは大抵の胡散臭い文明論に登場する常套句だが、的を射ているところもある。「すこし」「わりと」「ちょっと」「だいぶ」「だいたい」などという、物事の程度を曖昧にぼかす副詞が日本語にはいくらもある。英語で教育を受けていた時代には、そういう言葉はなるべく使うなと教わったが、千年以上まえの日本の随筆家がそれを実践しているとは知らなかった。
そして、それに続く映画のようなカメラワークである。傾いた夕陽が山の稜線と重なっている。徐々に焦点が絞られる。何かが通りすぎる。あとを追う。烏だ。けれども暗くなり始めていて、烏の飛んでいる辺りは逆光でまぶしい。おまけに烏は速いから、何羽いるのかよくわからない。三羽、四羽だろうか。いや、二羽、やはり三羽……。シェイクスピアだったら、passなのかpassethなのか決められなくて困ってしまうだろう。こんなに動的な描写は近代文学にさえあまりない。
そして、それに続く映画のようなカメラワークである。傾いた夕陽が山の稜線と重なっている。徐々に焦点が絞られる。何かが通りすぎる。あとを追う。烏だ。けれども暗くなり始めていて、烏の飛んでいる辺りは逆光でまぶしい。おまけに烏は速いから、何羽いるのかよくわからない。三羽、四羽だろうか。いや、二羽、やはり三羽……。シェイクスピアだったら、passなのかpassethなのか決められなくて困ってしまうだろう。こんなに動的な描写は近代文学にさえあまりない。
馬車は崖の頂上へさしかかつた。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従つて柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考へることが出来なかつた。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立つた。瞬間、蠅は飛び上つた。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。さうして、人馬の悲鳴が高く発せられると、河原の上では、圧し重つた人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかつた。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まつたその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいつた。
(横光利一「蝿」)【註5】
(横光利一「蝿」)【註5】
1923年になって書かれたこの文章のほうが、よっぽど鈍重で、それこそ蝿がとまりそうである。これを書いた横光利一が新感覚派なら、清少納言は超感覚派であろう。
だが、横光と仲の良かった川端康成などは、ずいぶん『枕草子』を読んだのではないか、とも思った。
だが、横光と仲の良かった川端康成などは、ずいぶん『枕草子』を読んだのではないか、とも思った。
子犬が女中部屋の床の下から這ひ出すやうになつても、四匹か五匹かよくわからなかつた。菊子は出て来た子犬を素早くつかまへて、うちへ抱いて上つたりしてゐたし、子犬は抱かれてしまふと、おとなしくしてゐるのだが、人間を見ると床の下へ逃げ込むし、みなそろつて庭へ出て来ることはないので、菊子も四匹と言ひ、五匹と言つた。(川端康成『山の音』)【註6】
こうしたわけで、私は古典に親しむようになってからしばらくの間に、いくつかの重大と思しい問題に気づいたのである。
まず第一に、近代文学の作家たちの作品のなかには、古典文学の、永い歴史のなかで鍛え上げられてきた日本語の片鱗が、あちらこちらに活かされているらしいこと。つまりは、近代化を経た日本の作家たちが、西洋の文学から懸命に学びながら作り上げたものが近代文学である、という教科書的な説明だけでは、近代文学の言葉は説明できないらしいこと。
第二に、さりとて近代文学のなかの古典の言葉は、必ずしもはっきりと目に見えるわけではないらしいということ。なぜなら意識的に古典の言葉を甦らせようとした作家もいれば、無意識にそうした作家もおり、あるいは意識的に古典の再生を行いながら、いかにも芸術家らしくそれを韜晦した作家もいるからである。さらに言えば、読者の側でそれにまったく気づかないということも、どうやら非常に多いように思われた。
第三に、どうしてそのような事態が起こるのかと言えば、単純に、現代人が古典からずいぶん隔てられてしまっているからだ、ということ。むろん、古典の不人気ということもある。古典は、古典が好きな物好きが読むものであって、大方の現代人は、受験のための一過性の苦しみとしてのみ古典に耐え、それが済めばさっさと記憶を封印してしまう。しかし、それ以上に複雑な事実として、古典文学と近代文学の間には、実際に大きな隔たりがある。いや、少なくとも、そう主張されることがあまりにも多かったのである。
まず第一に、近代文学の作家たちの作品のなかには、古典文学の、永い歴史のなかで鍛え上げられてきた日本語の片鱗が、あちらこちらに活かされているらしいこと。つまりは、近代化を経た日本の作家たちが、西洋の文学から懸命に学びながら作り上げたものが近代文学である、という教科書的な説明だけでは、近代文学の言葉は説明できないらしいこと。
第二に、さりとて近代文学のなかの古典の言葉は、必ずしもはっきりと目に見えるわけではないらしいということ。なぜなら意識的に古典の言葉を甦らせようとした作家もいれば、無意識にそうした作家もおり、あるいは意識的に古典の再生を行いながら、いかにも芸術家らしくそれを韜晦した作家もいるからである。さらに言えば、読者の側でそれにまったく気づかないということも、どうやら非常に多いように思われた。
第三に、どうしてそのような事態が起こるのかと言えば、単純に、現代人が古典からずいぶん隔てられてしまっているからだ、ということ。むろん、古典の不人気ということもある。古典は、古典が好きな物好きが読むものであって、大方の現代人は、受験のための一過性の苦しみとしてのみ古典に耐え、それが済めばさっさと記憶を封印してしまう。しかし、それ以上に複雑な事実として、古典文学と近代文学の間には、実際に大きな隔たりがある。いや、少なくとも、そう主張されることがあまりにも多かったのである。