第3回 嫌悪こそものの上手なれ(後編)
大野露井(翻訳家/小説家)
新しいことは自由か
日本の詩を近代化しようという動きのなかで、『海潮音』以前の大きな通過点となったのは新体詩であろう。外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎という国家的な秀才たちが1882年にまとめた『新体詩抄』には、おそらくは『古今和歌集』を意識してのことだろうが、漢文と仮名による三者三様の序文が付されている。ここでは外山による仮名の、というよりも口語の序文をすこし引いてみよう。
我邦にも長歌だの三十一文字だの川柳だの支那流の詩だのと、様々の鳴方ありて、月を見てハ鳴り、雪を見てハ鳴り、花を見てハ鳴り、別品を見てハ鳴り、矢鱈に鳴りちらすとも、十分に鳴り尽すこと能ハず、何んとなれバ、古来長歌を以て鳴れるものなきにあらねども、こハ最と稀なることにして、殊に近世に至りてハ、長歌ハ全く地を払へる有様にて事物に感動せられたる時の鳴方ハ皆三十一文字や川柳や簡短なる唐詩と出掛け実に手軽なる鳴方なれバなり、蓋し其鳴方の斯く簡短なるを以て見れバ、其内にある思想とても又極めて簡短なるものたるハ疑なし、
(外山正一「新体詩抄序」)【註9】
要するに漢詩も日本の伝統的な詩形も、どちらも現代日本の表現媒体としては不十分であって、それというのも三十一文字の和歌や十七文字の川柳では複雑な思想を表現できるものではない、という身も蓋もない宣言なのであった。だがその結果として彼らがたどりついたのは、西洋の高尚なる詩や戯曲を七五調で訳出するという安易な方法に過ぎなかった。矢田部はシェイクスピア『ハムレット』のあの有名な台詞、To be, or not to be, that is the questionをこんな風に訳している。
ながらふべきか但し又
ながらふべきに非るか
爰が思案のしどころぞ
(矢田部良吉「シェークスピール氏ハムレット中の一段」)【註10】
シェイクスピアを浄瑠璃もどきに訳すだけで近代化できるのであれば苦労はない。ここはひとつ、
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
(在原業平、古今集、恋五、747)【註11】
という業平の歌でもじっくり読んでから、出直すべきであろう。存在と不在、肯定と否定のあわいに浮かぶ恍惚と不安が、見事に共存する一首である。これを「極めて簡短」な思想としか捉えられなかったのが明治という進歩的な時代の悲劇であろう。
その『新体詩抄』の流れをくむ著名な詩集の一つが、島崎藤村の『若菜集』である。藤村は「日本近代詩の母」とまで称されているが、こと日本語の不自由さに関するかぎり、ここでも状況は変わらないようだ。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
(島崎藤村「初恋」)【註12】
一見してわかることは、中也の訳詩に横溢していたような自由がここにはなく、同じ七五調でも、こちらは七五調にがんじがらめになっており、間延びした和歌か、さもなくば訓み下された漢文のような様子をしている、ということである。その意味で新体詩は、どれほど清新に映ったところで、内実はかなり伝統的な革新であった。

島崎藤村 1872年-1943年(写真:akg-images/アフロ)
ボードレールにしても、ランボーでさえも、十二音綴の詩を作ることはしばしばあった。伝統に則って作れないものを、革新できるわけがない。それは日本人も同じことだが、とくに近代の日本の場合が特殊なのは、詩の伝統とは何かということが明確になるまえに現代詩が生まれてしまったことである。
これは文明開化なるものを経験した島国ならではの事情とも言えよう。近世の日本の生活風景に馬車は存在しなかったが、日本人はその馬車から派生した汽車や自動車にはすぐに飛びついた。そのとき、馬車という段階を踏んでいないことを疑問視する人は誰もいなかったのである。シェイクスピアの戯曲を目の前にして、いや、せめてチョーサーから始めなければ、などと悠長なことを言っている暇はなかった。
詩における伝統の不在は今日までちぐはぐさを残している。例えば「自由詩」の対義語は「定型詩」であるが、その言葉が指す短歌や俳句は、詩とは異なるジャンルと見做されている。日本の詩はその点で、故郷を知らない孤児である。西洋の詩人を漢訳してみたり、それを訓み下したような詩を書いたりする人たちが現れたと思ったら、中也がお座敷芸を始めてしまったのだ。
孤児となってしまえば、いまさら古典に目を向ける気にもならないかもしれない。だが自分を捨てたものに食らいついてみると、なかなか文章修行になるようである。三島由紀夫は、ある時代までの日本人がまともな文章を書けていたのは、無理にでも古典を学んだ成果だと考えていたようだ。
僕の時代から、既に漢文の教え方は昔の素読とか、ああいう本当の教え方でなくなったですね。やっぱり漢文なんてものは、いくらつまらなくても『論語』を暗唱させるとか、ああいう行き方でいかなきゃだめなんですよ。それで頭の中に漢文の文章のイメージが固定するんです。文章が弱くなったのはそのせいですね。漢文の教養がなくなってから、日本人の文章は非常にだらしがなくなった。
(『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』)【註13】
三島の意見には一理も二理もあるが、漢文の素養があったはずの明治人たちの迷走ぶりを見たあとでは、事はそう単純ではない、ということになりそうである。「であります」の演説口調では、どんなにがなり立てても故郷を定着させることはできないであろう。
好きこそものの上手なれ、とは言うものの、嫌悪こそものの上手なれ、も捨てがたい。徒らな進歩史観は何も生まないのである。中央を、権力を、伝統をくさすには、まずはそれらをよく知らなければならない。よく知らないものを、本当に憎めるものではないだろう。そして、嫌悪感はしばしば、凄まじい原動力となるのである。