第3回 嫌悪こそものの上手なれ(後編)
大野露井(翻訳家/小説家)
言葉という故郷
一昔まえまで、次の詩を暗誦できる人はそれなりにいたようだ。
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
(カール・ブッセ「山のあなた」)【註1】
この詩の作者が外国人であると知ったとき、私は率直に驚いた。といっても、外国人が日本語で書いたというわけではない。英文学者の上田敏が、1905年に世に問うた訳詩集『海潮音』で、「山のあなた」をはじめとする伊・英・独・仏の浪漫派・高踏派・象徴派の詩人、すなわちダンヌンツィオやロセッティ、ハイネやヴェルレーヌなどの作を、実に自然な日本語に置き換えて紹介したのである。このことが日本文学のその後に与えた影響はあまりにも大きい。
しかし、どうすれば自然な日本語になるのか。訳者本人によれば、その方法はこうである。
高踏派の壮麗体を訳すに当りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉体を翻するに多少の変格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが為なり。(上田敏「序」)【註2】
壮麗体だの、幽婉体だのと、なんだか漢文の四六駢儷体の親戚みたいな言葉が並んでいるが、とにかく外国の特徴ある文体を七五調に包み込んでみると、どうにか日本語らしくなるらしいのだ。
七と五という韻律がかくまで日本人の骨身に染みるのがなぜなのか。これは日本語をめぐる大きな謎の一つだが、少なくとも音素のとかく少ないこの言語で、シェイクスピアの弱強五歩格とかボードレールの十二音綴のような拍子は生まれようもない。あれほど漢文に親しんでいた平安時代にも、それでは日本語にも四声を導入して、和歌にも平仄を、とは誰も言わなかった。当時からすでに、七五調が板についていたのである。
上田敏の時代、ある意味で日本語は、存亡の危機に瀕していた。新時代の日本語表記はどうあるべきか、という議論のなかで、森有礼のように、いっそ英語を公用語にしてしまうことを主張する者も少なくなかった。前島密や内村鑑三などのように、海外で勉学を完成させた結果、むしろ日本語を読むことが不得手になっていた知識人が少なからずいたことを思えば、これはあながち突飛な構想でもなかったのである。日本で唯一の大学であった東京大学でも、国の将来を担うことを期待された千名ほどの学生が、もっぱら英語で講義を受けていた。
だがどうやら日本語は命脈を保ち、それどころか、外国の詩を日本語化するまでの体力を身につけるのである。きわめて曖昧な輪郭を持つ言文一致運動の成果として仮名遣いが整備され、中国本土に逆輸入されるほど明快な新漢語が続々と鋳造され、カタカナで外来語を生け捕りにする方法も確立された。そうして豊かになった引き出しからどんどん言葉を取り出して、新時代の文学が模索されたわけである。
言ってみれば、平安時代に漢文を相手にやったことを、明治時代に西欧語を相手に再現した、ということになるだろう。外国語を経由しても言葉には故郷が創れるのだという、千年前の歌人たちが証明した事実を、明治の知識人たちは追体験したのである。
よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見
(天武天皇、万葉集、巻1、27)【註3】
飛鳥時代に吉野の地を讃えるこの歌を詠んだとき、「や行」と「か行」、「や行」と「さ行」の反復に合わせていやます充足感に、天武天皇はさぞ愉快そうに笑っただろう。しかし当時の表記で、果たしてその笑いが伝わるかどうか。
淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見与良人四来三
古い時代の万葉歌だから、音と文字の関係は複雑である。『毛詩』から採られた「淑人」は君子を指し、意味としては上等だが、「よきひと」という音節を素直に伝えてはくれない。「而」で完了を示すのも漢文のやり方である。最後の「四来三」だけは軽やかで、一音と一字の結びつきが、遊び心のある表記で実現している。せめて最後くらいは音の楽しさに意識を向けさせようという配慮だろうか。だがこれにしても、「しこさん」などと訓んでしまわない保証はない。そうか、「よくみ」か、と結論が出るには少なくとも何秒か必要である。
《昔の優れた人がこのよい所をよく見てよいと言ったこの吉野をよく見よ、いまの優れた人よ、よく見るがよい》というこの歌の内容は、まさに昔の文学から学ぼうとするこの連載の姿勢とも見事に一致する。だが昔の優れた人が何を言わんとしていたのか、表面的にさえわかりにくい状況では、いまの優れた人がそこから何かを生み出せるとも思われない。そのような身動きのとりにくさ、隔靴掻痒とした物足りなさが、仮名によって払拭されたのであった。
横のものを縦に
明治時代の人々も、すぐに『海潮音』にたどりついたわけではない。どうにか「自然」と感じられる書記の実現には、仮名を創るほどの期間こそ要しなかったものの、迂路を強いられたことは間違いない。例えばオリヴァー・ゴールドスミスの「寒村行」の和訳は、敬宇の号を用いた中村正直にかかると次のようになる。
一叢樹林囲小屋。中有牧師守幽独。一年所得僅卅金。自謂衣食既豊足。不解謟諛不求権勢。不変其説以適時俗。不願其身陛高位。貧世間難恃之利禄。但願扶起窮民無告者。(『敬宇先生詩文偶抄』)【註4】
鬱蒼とした樹木に囲まれた粗末な家屋に、欲のない牧師が孤独に暮していた、ということはわかる。繰り返すが、これは和訳であって、中訳ではない。なんだか中学生が遊びで書いた漢文のような親しみやすさもあるが、少なくともここから詩情を汲みとることは不可能に近いだろう。中村もそのことを痛感していたのは、冒頭で「訳二英人ゴールドスミス詩意一」と断っていることからもわかる。あくまで意味を伝えることに徹したわけである。
ちなみに、この訳は原詩The Deserted Villageのえらく中途半端なところから始まり、これまた中途半端なところで終わっている。しかも、なぜかある段落の三行目から訳し始めるという力技である。引用部分に該当する箇所は以下のとおり。
There, where a few torn shrubs the place disclose,
The village preacher’s modest mansion rose.
A man he was, to all the country dear,
And passing rich with forty pounds a year;
Remote from towns he ran his godly race,
Nor eer had changed, nor wish’d to change his place;
Unskilful he to fawn, or seek for power,
By doctrines fashioned to the varying hour;
Far other aims his heart had learned to prize,
More bent to raise the wretched than to rise.
(Goldsmith, The Deserted Village)【註5】
なるほど、中村訳でもだいたいの意味は再現されている。だが細かな省略や改変は枚挙にいとまがないし、古体詩ということなのかもしれないが、押韻もなければ平仄が整っているわけでもなく、つまり漢詩として完成されているわけでもない。原文の韻律は十八世紀の詩のなかでも整った弱強五歩格で、英雄対句と称される二行ずつの押韻が徹底されている。
サミュエル・スマイルズの『自助論』を『西国立志編』として訳出し、近代のベストセラー作家の先駆けとなった中村正直を貶めようというのではない。これが当時の日本人が、漢文という書記に頼って西洋の文学を訳そうとするときの限界なのである。破竹の勢いで島国を飛び出し、脱亜入欧を謳ったところで、やはり日本人の帰る先は日本語でなければならなかった、ということだろう。

中村正直 1832年-1891年 (写真:近現代PL/アフロ)
中也のお座敷芸
近代を代表する詩人である中原中也は、神童と呼ばれた小学校時代から一転、読書に耽った中学校時代には成績がビリの不良になった。ランボーに出会って「こいつはおれだ」と思ったかどうかはわからないが、ランボーの翻訳はやっている。
季節が流れる、城寨が見える
無疵な魂なぞ何処にあらう?
(「幸福」『ランボオ詩集』)【註6】
漢語とルビを組み合わせた奥行きのある表記と、底を流れる七五調の名残は、まさしく近代日本語の精髄である。『海潮音』を貪り読み、写経までしたらしい中也の言葉には、東洋と西洋の詩魂がもつれあって流れている。
ちなみに『地獄の季節』にある原文は、以下のようなものである。
Ôsaisons, ôchâteaux!
Quelle âme est sans défauts?【註7】
おお季節よ、おお城よ、と言っているだけで、流れても見えてもいない。だが季節も城も複数だから、時空は移動している。そうすると、季節がめぐり、城が現れては過ぎてゆく、と表現したほうが、確かに言わんとするところが伝わるだろう。それに七・七・八・六という訳詩のリズムは、万葉歌などよりも七・七・七・五の都々逸に近く、その気だるさも酒乱だった中也によく似合っている。
けだし名訳であるが、中也はこうした訳を、小林秀雄や富永太郎との協働を通して捻り出し、自作の詩へも収斂させていったのであった。
観客様はみな鰯
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
(中原中也「サーカス」)【註8】
中也の作のうちで最も愛唱されているこの「サーカス」にしても、あるいは「汚れちまつた悲しみに」にしても、七・五のリズムがきわめて明白であることは象徴的である。詩集を一読すればわかるように、ややランボーの影響を受けすぎている中也の作にはより散文的なものも多い。つまり中也が執拗に七五調を用いたのではなく、読者のほうが七五調の作をとくに好み、愛唱することを選んだ、ということになる。
近代で好きな詩人は、と問われればとりあえず中也を名指している身としては、中也のやったことは「日本語で詩を書くランボー」というお座敷芸であった、と述べてしまうことに抵抗を感じないでもない。だが文芸はお座敷芸で結構だ、という見方もあるだろう。
少なくとも日本語の音を新しい時代の詩に根付かせたという功績ひとつとっても、そこに「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のような擬音を潜ませたというだけでも、中也の貢献を軽視することはできないはずである。中也がまったく無名だった宮沢賢治の『春と修羅』を気に入り、知人に配って歩いたというのは有名な話だが、稀代のオノマトペの使い手である賢治が絞り出した言葉に、中也の聴覚が感応したことは驚くに値しないだろう。