敵対心――相手と同じ論理にはまる罠
吉田徹(同志社大学教授)
NYを「ゴッサム・シティ」と置き換えて、バットマンの活躍を描くのはクリストファー・ノーランによるトリロジー(三部作)の二作目、『ダークナイト』(2008年)です。ティム・バートン監督のバットマン・シリーズが同氏特有の幻想的な色彩のものだったとすれば、ノーランのバットマン・トリロジーは、最新作『ザ・バットマン』(マット・リーブス監督、2022年)にもつながる、リアリスティックかつダーク・ヒーロー色の強いものです。
この作品の見どころはノーランならではの大仕掛けのアクションに留まらず、やはりその後の『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年)をもインスパイアしたであろう、ヒース・レジャー演じる、妙に饒舌なジョーカーの見せる狂気です(残念なことに本作は彼の遺作となりました)。
そのジョーカーは、ゴッサム・シティを牛耳るギャング団を脅して味方につけ、数々のテロを仕掛けることで、バットマンにその正体を明かすよう迫ります。ノーランのバットマン・トリロジーのライトモチーフは『マーシャル・ロー』でも提起した、倫理的に煩悶するヒーロー像を描いていることです。果たして、自らの身を明かさないままで超法規的に悪事を糺(ただ)し続けるべきなのか、それとも既存の司法を信じて飽くまでも秩序を回復すべきなのか――初恋の相手であるレイチェルとの関係もあって、バットマンことブルース・ウェインは煩悶し続けます。
バットマンの苦悩を見透かすジョーカーは、彼を挑発します――「お前は俺と同じフリークだ。今は必要でも、いらなくなったら世間からつまはじきされる。世間のモラルや倫理なんて善人のたわごとだ。足元が脅かされたら、たちまちエゴむき出し。いざとなったらいかに文明人という連中が争うかみせつけてやる」。ジョーカーを発見するため、違法な手段を用いることからもわかるように、ここでバットマンは、法の埒外に存在している点ではジョーカーと共通した存在であることが強調されます。

『ダークナイト』より
恐怖や憎しみ、復讐心――これらの感情がバットマン誕生の源泉となっていることは、一作目『バットマン・ビギンズ』で描かれています――は、正義や慈しみという感情よりも優位にあるはずだ。ジョーカーはバットマンが街の秩序回復を託したデント地方検事をその道に引き込むことで歩を進めます。
「小さな無秩序で体制をひっくり返す。すると世の中は大混乱に陥る」「その混乱を引き起こすのは恐怖だ」――ジョーカーは恐怖や憎しみこそが世界を突き動かす原動力であることを証明しようと、巧妙な罠を仕掛けます。それが、ゴッサム・シティから退避する2隻のフェリーに爆弾を仕掛け、乗客に互いの船を爆破する起爆装置を渡すことでした。他方は一般市民が、一方は囚人が乗せられたフェリーで、いずれかが時間内に相手を爆破しない限り、二隻ともに爆破されるという「囚人のジレンマ」状態を作り出し、恐怖こそが社会の法則であることを証明しようとしたわけです。
果たしてどうなったか――市民も囚人も、起爆装置を起動しないままに終わります。バットマンはジョーカーに高らかに宣言します。「何を証明したいんだ。誰しもが心の奥底は醜いということか」「ゴッサムの市民は、彼らは良心を信じる善意の人々であるということをお前に示したんだ」。
法の秩序の外にいながら、憎しみを原動力として秩序を保とうとするバットマンは完璧な存在たり得ません。その証拠に、彼はその存在によって多くのものを喪失していきます。作中、デントが「古代ローマでは民主主義より一人の男に運命をかけたんだ」というセリフを吐くシーンがありますが、ノーラン監督は明確に人々の善意によって駆動する民主主義の可能性をメッセージとして発します。
ここで私たちは、再び自身に問わないとなりません。すなわち、恐怖や憎しみに突き動かされる内なるジョーカーに抗い、そしてどこからかやってくるヒーロー、つまり内なるバットマンを待つのではなく、「善意の人々」であり続けることができるのかどうか、と。
「豊かさ」とは何か――『ランド・オブ・プレンティ』
猜疑(さいぎ)心と敵対心を募らせる滑稽さを描くのは、巨匠ヴィム・ヴェンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)です。この映画はまた、ベトナム戦争の記憶とパレスチナ紛争の経験を9.11と結びつける作品でもあります。
時は9.11からちょうど2年が経った2003年、主人公はベトナム戦争で使用された枯葉剤(通称「オレンジ」)の後遺症を患い、さらに9.11によるPTSDに苦しむ愛国主義者であるポールという中年男性です。彼は、新たなテロを防ごうと、改造したバンに監視カメラを据え付け、怪しいと目を付けたアラブ系市民の会話をマイクで盗聴するなど、日夜、素人ながらの監視活動に勤しんでいます。
そんな時、パレスチナでボランティアをしていた彼の姪であるラナ(ミシェル・ウィリアムス)が帰国してきます。宣教師の父を持つ彼女は、そのつてを辿って、ロサンゼルスのスラム街の教会でスタッフとして働くようになります。その教会の炊き出しに来ていた人物の一人がポールの目を付けていた人物であることから、ストーリーは急展開していきます。彼が路上で何らかの人物に射殺され、ポールはこれをテロ集団の内輪もめと確信、ラナとともに、彼の遺体を唯一の肉親のいる町へと運び、真実を突き止めようとします。ここからが、ヴェンダース監督ならではのロード・ムービーの始まりです。
もともとパラノイア気味のポール。化学薬品を大量殺人兵器と思い込み、その薬品会社の段ボールを使う引っ越し屋をテロリストとみなして、アジトと定めた家に侵入しますが、そこにいたのは、寝たきりの老人でした。所詮、彼は自らの妄想に振り回されたにすぎません。人生の目的を失ったポールは「俺は何を追っていたのか」と失意の底に沈みます。

映画『ランド・オブ・プレンティ』より
そんなポールをラナは温かく見守り、声をかけます。ポールの妹である母親との関係、彼の抱えたトラウマ、パレスチナでの出来事、そして9.11の経験――まさにその日、パレスチナの人々が歓声を上げたのを見たというラナに、ポールはいいます。「あの日3000人以上の市民が殺された。それも罪のない人々ばかりだ」。そんな彼の言葉に、彼女はこう返します。「私はその人たちの声を聴きたいの。報復で人が殺されるのを望まないはず」。こうして2人は、空虚な場所となったツインタワーの跡地にともに立ちます。
この映画が描くのは、2人の人物を通じた2つの感情の対照性――自家撞着と慈しみ、猜疑心と愛、敵意と祈り、執着と許し――であり、そして、過去のアメリカを体現するポールと、未来を体現するラナの交流を通じて、今のアメリカを映し出そうとする試みでもあります。ヴェンダース監督は、そうした豊穣な会話の中に「ランド・オブ・プレンティ」、すなわち「豊かな国」を見出そうとしているかのようにも見えます。
自分たちにとって脅威となる相手と対峙した時、単なる憎しみや敵意、恐怖に染まるのではなく、こうした「豊かな国」を築くことができるのかどうか。ウクライナ戦争を機に、そのことこそが問われているように思います。