imidas - 情報・知識&オピニオン

連載

子ども――社会を映し出す鏡

第15回

吉田徹(同志社大学教授)

「こども家庭庁」の発足準備や児童虐待をめぐる報道が相次いでいるように、最近になって子どもをめぐる政策や事件が大きく注目されるようになりました。なぜ今になって「子ども」についての話題に関心が集まっているのでしょうか。

 その背景には、子どもの置かれている状況があります。コロナ禍では、ロックダウンや休校の影響もあり、例えばアメリカの若者の4人に1人が自殺を検討したことがあったり、イギリスの若者の3割が精神状態の悪化を経験したりしたとの調査結果があります。日本でも、2020年に小中高生の自殺数が最多を記録しました。ただ、日本の子どもの自殺率は2010年から増え続けており、子どもたちが直面している苦難の理由をパンデミックだけに求めるわけにはいきません。

 政治学者ロバート・パットナムはその名も『われらの子ども』(柴内康文訳、創元社、2017年)というタイトルの本で、現在のアメリカの子どもたちが格差社会の最大の犠牲者であるとしています。ここでは、経済成長が止まったことで、それまでの社会的平等を実現していた社会経済的な階層間の流動性がなくなり、子ども間の格差を生んでいる現実が綿密に調査されています。例えば、1983年と2007年の間で、子ども1人当たりの支出は所得分布の上位10%の家族で75%増えた一方で、下位10%の家族では22%も減っており、格差の負の連鎖が拡大していると指摘します。

 さらに、本来ならば、教育こそが不平等是正のための手段となりますが、成績が悪い富裕層の子どもと成績の良い貧困層の子どもが大学卒業する確率は同じ程度であるという数字から解るように、学業で成功できるかどうかすらも、家庭の所得に比するようになってしまっているとします。

 いうなれば、子どもは脆弱であるがゆえに、私たちが抱えている社会の問題のしわ寄せをもっとも直接的に受ける存在でもあるのです。そんな社会の映し出す子どもたちの姿を、時代を追って映画のなかに求めていきましょう。

今回紹介する3作品のDVD。左から、『ドイツ零年』(発売元:IVC)、『ぜんぶ、フィデルのせい』(発売元:ギャガ・コミュニケーションズ/ショウゲート)、『リトル・ダンサー』(発売元:KADOKAWA)。

 

生き残ることの代償――『ドイツ零年』

 第二次世界大戦後の混乱とそこでの人々の生活に焦点を当てたのは、イタリアの「ネオ・レアリスモ」と呼ばれる作品群ですが、これらには、有名な『自転車泥棒』(デ・シーカ監督、1948年)や『無防備都市』(ロッセリーニ監督、1945年)など、子どもたちを主人公にしているものが多くあります。なかでも名高い『ドイツ零年』(ロッセリーニ監督、1948年)は、戦争のみならず、子どもに対する社会の残酷さをストレートに描き切った作品です。ロッセリーニは、この映画は「子どもの人権について」のものだと掲げ、「イデオロギーの偏向は犯罪と狂気を創り出す。それは子どもの純真な心までも汚染せずにおかない」とエピグラフに記してもいます。

 タイトルから解るように映画の舞台はドイツの首都ベルリンで、まだ戦火の爪痕が色濃く残る1947年に撮影されたものです。12歳の主人公、エドモンドは病気の父親と兄と姉の4人家族で、他の家族とともに肩を寄せ合って暮らすアパートの住人です。元ナチ党員だった兄は逮捕を恐れて外出せず、気丈な姉は父親の面倒をみなければならないため、実質的な働き手は彼1人しかいません。家計を助けようとエドモンドは懸命に働き口を探します。街中に貧困が蔓延するなかで、大人とて、生きていくのに必死だった時代。大人の真似をしようとしても12歳でできることはたかが知れており、行く先々で邪険に扱われます。

映画『ドイツ零年』より

 そんな矢先、彼は街角でかつての担任の教師だったエニングと偶然の再会を果たします。ナチスの残党でもあるこの教師は、仲間とともに闇市商売をしており、エドモンドにその手伝いをさせます。そしてエドモンドにこう諭します。「苦しい時に情けは無用なんだ。生存競争さ」「弱い者は強い者に滅ぼされる」――これはナチスの優生思想そのものであることから、エニングは戦中も戦後も同じ環境に生きていることを示唆しています。

 エニングのお陰で幾ばくかのお金を手に入れ、エドモンドはこうしたナチスの思想に感化されていきます。病床に伏して生きる意味を見出せない父親は言います――「わしは全部とられた。財産はインフレに、子どもたちはヒトラーに。反逆する力もなかった」。こう嘆く父親を憐れんだからなのか、それとも口減らしをするためだったのか、エドモンドは自ら父親を毒殺するに至ります。

 家族を自らの手で崩壊させ、ストリート・チルドレンたちの仲間にも入れず、エニングにも父親殺しをした自分を受け入れてもらえなかったエドモンドに最後に残された道は、廃墟ビルから自らの身を投じるという痛ましい選択でした。

 この時代のヨーロッパ社会についての証言を集めた本は次のように記しています。「ヨーロッパ中で飢えに苦しむ何百万という人々が、次の食事のために全道徳的価値を擲つ用意があった」(キース・ロウ『蛮行のヨーロッパ』猪狩弘美・望龍彦訳、白水社、2018年)。自分が生きるために人を殺める、缶詰ひとつのために体を売るといった行為は日常茶飯事でした。エドモンドは、大人のために役に立とうと献身的に尽くし、それゆえに父親を殺すという破目に陥ったばかりか、自らの身であまりにも大きい代償を払うことになりました。当時のイギリスの新聞は、この時代の子どもたちのことを「失われた世代」と表現しましたが、ロッセリーニの言葉にもあるように、そのような欠損を生んだのは、この時代の大人たちでした。

 

子どもが政治に目覚めるとき――『ぜんぶ、フィデルのせい』

 子どもが社会の合わせ鏡だとしたら、その社会が変わるならば子どもの在り方も変わります。そのことを、時代のもうひとつの転換点である60年代から70年代のフランスの子どもを通じて描くのは『ぜんぶ、フィデルのせい』(ジュリー・ガヴラス監督、2008年)です。

「フィデル」とは、キューバ革命を指導したフィデル・カストロのこと。気難しい9歳の女の子、アナがキューバ人家政婦に向かって放つ言葉がタイトルになっています。彼女の父親は弁護士、母親は女性雑誌編集者というともにインテリで、戦後のベビーブーマーが成人となって新左翼的な志向が支配的となっていったこの時代の空気を吸い、チリのアジェンデ政権の支持者になっていきます。

 フランスでなぜチリの政治が関心の的になったのか、説明が必要かもしれません。1970年に成立したアジェンデ政権は、冷戦とベトナム戦争の只中に世界で初めて自由選挙によって生まれた社会主義政権として知られています。外資系企業や大企業の国有化や土地開放など、貧富の格差の激しいチリで農民と労働者寄りの政策を掲げた革新的な政権でした。いわば、それまで理想でしかなかった、ソ連とは異なる「人間の顔をした社会主義」が現実に生まれたことで、当時の若者たちは熱狂したのです。これに危機感を覚えたのがアメリカのニクソン政権で、キューバに続いて自国の「裏庭」たる中南米で社会主義体制が誕生するのを止めるため、金融制裁やCIAを使った工作でチリ国内を動揺させ、1973年に軍部によるクーデターによって政権を倒すことに成功しました。クーデターが起きた1973年9月11日は、アメリカ同時多発テロとともに「もうひとつの9.11」として世界史に記録されることになります。その後、チリは新自由主義経済学の実験場となる一方で、実に1990年まで軍部出身のピノチェト大統領による権威主義体制を経験することになります。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

関連記事

新着記事

imidasの更新情報をお届けします。