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東京の顔つき――武田麟太郎再読

古川真人(作家)

 さっそく作品について紹介しよう。
 けれど、具体的な作品名を挙げ、文章を引っ張ってくるわけではない。そうじゃなく武田麟太郎作品の特にしばしば出てくる場面や物の傾向について、少しばかり。久しぶりに読んでみて――武田麟太郎は必ずと言っていいくらいに、どの作品の中にも汚物を置いているのに気がつく。牛や馬の糞は生やさしい(?)ほうで、糞が道端に転がり川に浮かんでいるならまだしも、バラック小屋で寝起きする者たちの家の前を糞便が流れていく。海抜からさして高くない土地で地上げせぬ所に下水の不完全なのが重なって、少しの雨でも膝まで浸かるほど水が出るせいだ。これが彼の短篇に描かれる東京だった。そんな悪所だから家賃も安い。貧しい者たちが寄り集まってくる。そうした「不良住宅」に住まずに済んでいる、ましな暮らしを送る者たちも出てはくる。だが、彼らの着ている服の擦り切れた襟を覗き込んでみれば、垢や脂やふけで茶色に染まっている。一日の仕事を終えた彼らが夕涼みに寄りかかった川辺の欄干から下を見てみよう。真っ黒なヘドロの川の水に、付近の工場から出た排水の泡が入り交じり、鼻を突く臭いが立ち上ってくる。
 汚いもの、醜いもの、非合法のもの、臭いもの、あらゆる意味で「使い物」にならないもの……彼はこれらを小説の中に書かずにいられない。なぜなら起きて食って働いて、と言わば日の当たった、経済的で合法の生活空間は、陰に隠され捨て去られる多量の排泄物を伴うものだ。表を書く以上、裏も書かなければ嘘になってしまう。またそして、どこにでも糞や貧民や非合法の商売があることが異常だというのなら、それは表が異常であるということだ。表と裏を張り付ける経済の構造が歪んでいる以上、裏のどぎつさは表をよく反映したものにほかならない。大雨の度に水が出て居住空間を浸すバラック小屋の風景に糞を書き入れることを以て、彼はそれを政商が跋扈する社会の裏書の解説とする――これが彼の作品中の糞便の秘密である。

 糞を出したら、今度は口について書こう。口だけでは物足りないから顔全体を、特に表情を。武田麟太郎の小説にはうなだれ、しょげかえって、悄然とした顔つきの者ばかりが出てくる。澄ました顔、訳知り顔、他人とは違う角度から世の中を見渡そうとして、寝違えた者のように首を傾げて苦しげな顔、断言と政敵への攻撃の熱弁に上気した煽動家の顔、誰が言っていて誰から聞いたのかも確かめず八方に噂をまき散らす慌て者の顔――危機の時代にあって、お馴染みの顔たちだ。これらの顔を我が物とし、小説の登場人物たちの面に被せるには、あまりにも彼は分別がありすぎていた。とてもできるものじゃない。だから、それら得々とした表情より彼はしょげかえってぼんやりとした顔を選ぶ。そしてこの、身も世もないといった表情は、彼の作品に共通する通俗性の埋め合わせとばかりマチズモから遠いのだった。
 ここで話は最初に戻って――古い居酒屋はどんどん潰れていく一方で、それにしても東京は、やはり首都らしい体裁を崩さないでいる。コロナ以前のようには飲食店に客足が戻らず中小企業はどんどん潰れていると報じられているけれど、それにもかかわらずマンションとビルはあちこちに建つ。東京の、ことに繁華街は更地を1秒だって放っておかないみたいだ。ビルが解体されても繁華街の真ん中に地面が露出しているのはごく短いあいだに過ぎなくて、すぐ瘡蓋みたいに防塵防音の幕が張り巡らされ、その中でカンカン、ドドドと工事の音がはじまる。それでいつのまにか真新しいビルが立っている。新築のビルの1階から4階まで居酒屋が入っていて、ワクチンが出回ってきたとはいえ、それにしたって世は皆コロナだというのに、居酒屋なんてはじめてもつのかね? などと看板を見上げながら思うとしても、この種の店はコロナが無くとも3年経たずに居抜きで別の店舗になっているものだ。そうした都市の代謝が病気の蔓延した時期でも続くんだから、やはり首都なのだろう。

 ところで武田麟太郎の手によって書かれた東京はといえば、雨が降ればすぐに水が出るのもそうだけど、同時に埃っぽくもある。吹きさらしの中を、右も左も掘っ立て小屋のような長屋が立ち並ぶ景色が多くの短篇で描かれる。それは関東大震災後の復興期に見せていた東京の相貌だ。どこもかしこも仮小屋のような急ごしらえの街並み。わずかに残った自然物たる川も池も、やはり彼の筆に写し取られるのは腐ったようなヘドロの充満したさまだ。とても住みたくなるような街じゃない。と、そこではたと思い至る。そう、東京にも「被災地」だった時代があったのだ。はるか後に東北を見捨てた帝都にも、病み上がりの青ざめた顔をしていた頃があった。どこもかしこも仮小屋のような、と書いた。それは被災地が、また建てた途端にぐらりと来ないだろうかと疑って、本腰を入れた普請にはいま一つ身を入れられない頃の街並みなのであった。どうやら地面が揺れることもなくなり、けれども一時だけと思っていた仮住まいが習いとなってしまい、中途半端な格好のまま今度は経済の伸縮に合わせて姿形を時々に変えるようになった街。この自律性を失った姿が昭和の東京なのだ。街自体がそうなのだから、そこに暮らす人々も同様に、居住や職を思うに任せない日々を送らざるを得ない。不況が来ればどっと街に失業者が溢れる。バラック小屋が立ち並び、飯場と結合しつつ巨大化する。行政によって追い払われる。息子は人を殺したり殺されたりするため大陸に連れていかれる。娘は口入れ屋と称する男の手に引かれ、ぼろぼろになるまで「稼がされる」……するうちに再びの罹災。飛び去っていく爆撃機を見上げながら途方に暮れる。
 これが武田麟太郎の描いた昭和の東京の顔だ。どうしたってしょげかえっている他ない、いつも割を食わされる貧しい人々の顔だ。そんな人々の中でも唯一、不変の自律性を持っているのが役人と政治家である。武田麟太郎の生きた頃も今も、彼ら奉職者たちは人命を助けないという一点を固持する。炊き出しに並ぶ人々の横を車で通りながら、飯を食いたいのなら何も並ばなくたってウーバーを頼めばいいし、頼むカネがないならウーバーをやって稼げばいいのに、と不思議がることのできる公務員の鑑たち……彼らは武田麟太郎の小説には決して出てこない、当然だ。

 いや、政治家も捨てたもんじゃないという意見もある。確かにそうかも知れない。少し前、2度目の緊急事態宣言が東京で出された頃だったか。ぼくは知人と電話で話していた。
「いろんな事情で食事できない人っていうのがいてねえ……どの人も本当に大変みたいで」
 知人――中学からの知り合いで、今はテレビ局に勤める彼が言うのは、朝の情報番組の取材のために炊き出し現場に行った際の光景だった。
 彼とは普段ならば、電話で政治的な会話というものをしない。したこともなかった。
「それで、そこに共産党の議員がいるから話を聞いて。議員の人たちは並んでいる人たちの相談に乗ってて、頭が下がりますよ」
 だから、そう彼が言ったのに少しく驚き、しかしすでに接していた報道で、確かに野党の政治家が炊き出しや、その場に椅子と机を設けての行政支援に繋がるための相談会をしばしば行っていることは知っていたから、
「ああ、いろいろとやってるんだってね」
 と、ぼくは言った。
「一日に何十人も相手して、いや、政治家にもね、ちゃんと困った人の相談に乗ってあげなきゃって思って、そうやって動いている人がいるんだって思って。頭が下がりますよ」
 取材をした日の晩に電話をしたものだったからか、数時間前に目にした光景を忘れられないと言うように彼は繰り返すのだった。
 短い逸話の中にも、ご覧のように心ある政治家はちゃんといる。とはいえ、この作文の中で赤旗を振ろうというんじゃない。ただ知人の中でも、ノンポリの権化みたいな者からさえ共産党への期待が洩れたことにわずかながら驚き、納得したというだけの話だ。

***

著者情報

作家

古川真人

ふるかわまこと

 1988年7月福岡県福岡市生まれ。國學院大学文学部中退。2016年「縫わんばならん」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2020年「背高泡立草」で第162回芥川賞受賞。著作に『縫わんばならん』(新潮社 2017年)、『四時過ぎの船』(新潮社 2017年)、『ラッコの家』(文藝春秋 2019年)、『背高泡立草』(集英社 2020年)がある。

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