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東京の顔つき――武田麟太郎再読

古川真人(作家)

 あいかわらず都市は新陳代謝をとめない一方で貧困への無対策を前に、人々は政治への虚無の感を深めていく。その反動として現れる刹那的な快楽への没頭。そのくせ、維新のような政党には一も二もなく惚れ込む無邪気さを持っているものだから……いや、いけない。これじゃまるで大衆は愚かだと言うみたいな口ぶりだ。もしも愚かに見えているのだとして、結局ぼく自身の投影に過ぎない。
 また武田麟太郎に戻って――彼も弱く貧しい者から順々に死んでいく都市を見ながら、自分が心底から悲しんでいるという表明を小説内で惜しまない。けれども、悲しかったとは書かない。自分は感傷家だと言うその口で、死んでいく人々の食う飯と、出す垢やふけや糞尿やごみをこれでもかと書き記す。露悪の調子なぞこれっぽちもなく。そこに露悪の風味を一滴でも振りかけてくれたなら、まだ救いはあるのだ。悲惨をモティーフにした小説を作者と一緒に消費する罪悪感が、通俗的な物語に欠かせない要素であることを確認できるから。だけど、そこが武田にとって倫理のリミッターであるらしい。そのため彼のどの小説を読み終えても、読者のぼくは傍に寄ることもできず、蒲団に横たえられた死人の横顔を前にして幕が下りたことを知り、泣くに泣けない顔で眺めることしかできない。そして、この読者に張り付いた泣くに泣けない顔こそ、武田麟太郎という小説家の顔でもあるのだった。

 これもいつだったか――とはいえそう前の話ではない。作家の鴻池留衣氏から電話がかかってきたことがあった。
何だと思って出てみれば、
「これから――宵の口といった時刻だったが――小佐野彈の家で飲みませんか? 彼、今ちょうど日本に戻ってきているから、よかったら一緒にどうかなと思いましてダメもとでお誘いするんですけど」
 と、彼は言った。聞けば台湾に暮らす小佐野氏が日本に戻ってきているとかで、久しぶりに会って飲まないかという話が持ち上がっていたようだった。ぼくがコロナに感染するのを極度に恐れていると、おそらく鴻池氏は知っているために「ダメもと」と言ったのだろう。案の定というか、つれない返事をするぼくに対して、
「じゃあ、また今度。古川君もワクチン打ったら飲みましょうよ」
 そう言って電話は切れた。
 数日経って、ぼくは編集者(この文章を依頼してきた人物)と電話で話していた。四方山話のついでに、ぼくは鴻池氏と小佐野氏の一件を言った。
「そうそう、おれの所にも鴻池さん電話かけてきて。それも、すごい早い時間だったから、おれ半分眠りながら慌てて電話に出たら鴻池さんで、古川さんにも電話したけど来ないって……」
 それから編集者は、
「古川、あいつ呼んだのに来ねえんだよお」
 と、楽しそうに鴻池氏の、だいぶ身の内を酒が回り出来上がった調子を真似ながら言うのだった。
 作家仲間の酒の場の会話を書いて、ぼくは一体何が言いたいのか? 羨望限りないということを言いたいのだった。二人の現代作家にとって、緊急事態宣言なる言葉は真面目に聞くに値しないものなのだ。新しい生活様式でもいい、それからステイホームも。他人の行動を統制するのに最も刺激が少なく、また口ずさみやすい単語が次々と生まれる。それがいかに社会上望ましく、好ましいものだとしてもキャッチコピーであることに変わりはない。人に好かれようとして生み出された言葉には、特有の臭みがついている。二人の作家は、その臭いで鼻を麻痺させるよりアルコールの香りを嗅いでいたいと判断したに過ぎない。
 武田麟太郎もそうしただろう。

 なのに、ぼくは家に閉じこもって次のような文章を書きつけるのだった――武田麟太郎はどの小説でも悲惨から目をそらさない。なぜといって目をそらす仕草は最も皮相的な現実への評論であるからだ。評論をした自分に気づいたら、今度は薄笑いがやってくる。一人で薄笑いを浮かべているのを恥じれば、嘲笑する対象を用意するだろう。現代ならば、フェミニストやコロナ対策の改善を訴える学者などがよいのだろうが、別にそれらに限らない。あざ笑うことの出来る対象であれば、その対象が真摯な態度を露わにしているのならば何だっていい。とにかく肝心なのは一人でにやついているわけじゃない、そうした者たちを笑っているのだと思い込めればしめたもので、いつしか自分が一端の毒舌家だか批評家になったような気がしてくるから不思議だ。いや、何も不思議じゃない。ばつの悪さから抜け出ようとして、ずるずると冷笑に落ち込んでいくだけの話なのだ。そのみっともないざまを演じないためには、だから目をそらさないことしかない。それがむずかしい。だけど武田麟太郎はそらさない。どの短篇でも随筆でもいい、読んでみるときっと分かるはずだ。

 まだまだ武田麟太郎のこと、東京のこと、コロナのことを書きたい。だけど煙草がなくなった。夜更けだから人もいないことだし、寝間着から着替えてコンビニまで行った。明るい店内に一人だけで働く若い男は、ぼくを見るなり、
「ありますよ! ピースのロング。カートンで」
 と言い、それから「嫌になりますよね」と、サービス品の使い捨てライターを探しながら話しかけてきた。
「ええ。いつまで続くのか……」
 ぼくはそう返事をして、「こんな病気に怖がってなきゃいけない時期が」と言葉を続けようとしたが、
「また値上がりですもんね」
 と、どうやら煙草のことを男は言ったものらしかった。ぼくは返事をし、煙草を手にして家に戻った。そして書き終わった。

 

著者情報

作家

古川真人

ふるかわまこと

 1988年7月福岡県福岡市生まれ。國學院大学文学部中退。2016年「縫わんばならん」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2020年「背高泡立草」で第162回芥川賞受賞。著作に『縫わんばならん』(新潮社 2017年)、『四時過ぎの船』(新潮社 2017年)、『ラッコの家』(文藝春秋 2019年)、『背高泡立草』(集英社 2020年)がある。

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