imidas - 情報・知識&オピニオン

連載

「戦争と平和のリアル」第35回 矢田稔「戦争と想像力」

自分の歌が誰かを戦場に向かわせたのかもしれない

矢田稔(俳優、声優)

(構成・文/小松田健一)

矢田さんの童謡歌手時代。1940年8月、東京・内幸町にあった日本放送協会(NHK)で。本人提供

 戦時期の日本は、ありとあらゆるものが戦争のために振り向けられた。芸術・芸能もその例外ではなく、大衆の心に浸透する音楽は戦意を高揚するための重要な道具となった。戦後『鉄人28号』の敷島博士役や、テレビドラマ『東京ラブストーリー』(フジテレビ系列)で主人公の恩師役などを務めた俳優・声優の矢田稔さん(95)は、少年期に童謡歌手としてその一翼を担った。今もなおそのことを悔悟し、自らを「戦犯」と称して反戦・非戦の訴えを続けている。「残された人生は、自分と同じ思いをする人間を二度と出さないために捧げたい」との思いが、それを支える。矢田さんの経験や視点を交えながら、戦時期の音楽を考察していく。

戦時童謡歌手「矢田稔」

 音楽が戦意高揚の手段として重視されるようになったのは、1931年の満州事変以降からとみられている。1932年の第1次上海事変で、敵陣に突撃して戦死した3人の兵士「肉弾三勇士」を称える楽曲が大ヒットし、戦争は音楽ビジネスとしても有効なことが証明された。当局もその宣伝効果に着目し、1934年にはレコードを検閲対象に加えた。当局の統制が強まり、レコード会社は時局に迎合せざるを得なくなる。検閲にパスしなければ、レコード盤の原材料の供給も受けられなくなるからだ。大人向けの戦時歌謡は「皇軍」の正義やアジアの盟主たる日本の正統性を高らかに歌い上げ、子ども向けの童謡も「兵隊さん」への感謝や、銃後の国民としての自覚を促した。

 矢田さんが童謡歌手となったのは1939年だ。日中戦争の開戦から3年目を迎えていた。泥沼化で戦死者も増えていた。遠く離れた中国大陸での戦いを我がこととして実感する国民は多くなかったが、戦時歌謡・童謡は次々と世に送り出されていたので、童謡も勇ましい歌詞を力強く歌える男児の需要が高まっていた時期である。

 矢田さんは、その歌唱力に着目した小学校の担任教員の仲介で、童謡『月の沙漠』の作曲者として名を残す佐々木すぐる(1892~1966)に弟子入りする。佐々木は東京・豊島区で矢田家の近くに住まいを構えていた。「幼い子どもですから、自分で選んだ道ではありません。それでも『自分は天皇陛下の赤子なのだから、一生懸命にやらなければ』という使命感はありました」と振り返る。NHKやレコード会社へ足を運び、大人たちに言われるまま歌った。矢田さん単独名義で録音したレコードも多く、童謡歌手の世界ではちょっとした売れっ子だった。

音楽家たちの戦争協力

 この時期の音楽家は程度の差こそあれ、ジャンルを問わずほぼ例外なく「戦争協力者」だった。歌謡曲の世界では『露営の歌』『暁に祈る』『比島決戦の歌』などを作曲した古関裕而が代表格だろう。童謡でも、矢田さんの師である佐々木は『兵隊さんよありがとう』を1939年に発表した。朝日新聞社の公募楽曲で入選した一般人の歌詞に佐々木が曲を付けた。「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです 御国のために御国のために戦った兵隊さんのおかげです」。子どもにも分かりやすい歌詞と軽快なメロディーがマッチし、ヒット曲になった。

 国民に戦時への備えを自覚させる歌も数多く作られた。その一つに、太平洋戦争開戦直前の1941年6月に発売された『爆弾位は手で受けよ』がある。10番までの歌詞は、挙国一致の精神を徹頭徹尾歌い上げ、各番とも「いざという時ゃ体当たり それ! 爆弾位は手で受けよ」で締める。作詞者の藤田まさとは、1954年発表の『岸壁の母』を手掛けたが、戦地から帰らぬ息子を待ち続ける母の心情を切々と歌い上げた名曲と同じ作者とは思えないほどギャップがある。矢田さんは『爆弾位は~』を聞いたことはないというが、私が歌詞を伝えると「当局にここまでやれば文句はないだろうというアピールにも思えます。やけっぱちですね」と苦笑した。

 著名な音楽家たちも、こぞって戦時歌謡・童謡を作った。「勝ってくるぞと勇ましく」の歌い出しで知られる『露営の歌』は古関裕而の作曲だ。ムード歌謡の大家・古賀政男は『軍国の母』を、笠置シヅ子の師である服部良一は『兵隊さんを思ったら』などを世に送り出した。国民はレコードやラジオでこれらの楽曲へ日常的に触れ、戦争への意識を高めていった。

お国のために歌ったのに……

 日本の敗色が濃くなるにつれ、こうした楽曲制作は次第に減る。矢田さんの歌手活動も、変声期を迎えたこともあって1944年春に事実上引退した。1945年4月13日深夜から14日未明にかけ、豊島区や板橋区、新宿区など都内西部と北部を米軍爆撃機が襲った「城北大空襲」で被災し、自宅が全焼した。矢田さんはその夜を今もはっきりと思い出す。火の海を無我夢中で逃げ回りながら、矢田さんは「自分はお国のために一生懸命歌を歌った。なのに、なぜこんな目に遭わなければいけないんだ。酷いじゃないかとつぶやきました」。これだけの目に遭いながら、4カ月後に日本が敗戦を迎えることは微塵も考えなかった。音楽を通じても叩き込まれた軍国主義は、それほど強固だった。

 矢田さんは家族と共に母の親戚を頼って秋田県・大館に疎開し、地元の旧制中学校に編入する。そして迎えた8月15日。講堂に全校生徒が集められ、床に正座して正午から昭和天皇の玉音放送を聞いた。空襲で焼け出された後も、日本の勝利を疑っていなかったから、衝撃は大きかった。「放送を聞くまで日本が戦争に負ける訳がないと本気で信じていました。終わるのは勝った時だけと思っていました」。日本の偉大さを歌ってきた14歳の矢田さんには、想像を絶する価値観の大転換だった。

音楽家たちの戦争責任

 音楽家たちは、戦争を煽り、国民の戦意を鼓舞したことに責任を取らなかった。敗戦後の1946年1月、日本を占領統治する連合国軍総司令部(GHQ)は戦争遂行の責任者や協力者が公職に就くことを禁じる「公職追放」を実施した。文学や映画、演劇界からも追放者が出たが、音楽界からはゼロだった。山田耕筰は音楽家の国策協力団体「日本音楽文化協会」の会長を務めた。戦時中は雑誌に『敵米国の音楽観と我等の進撃』と題してアメリカ音楽の野蛮性を主張するなど、反米の急先鋒だった。にもかかわらず、山田は「無傷」だった。それどころか、GHQ所属の音楽家に協力するなど変わり身の早さを見せた。

 公職追放はGHQからの圧力でもあり、責任の取り方の一つでしかないが、音楽界内部で自律的に戦争責任を問い掛ける動きは鈍かった。音楽評論家の山根銀二が1945年12月、東京新聞紙上で山田を「戦争犯罪人」と非難し、山田もそれに反論。後に「音楽戦犯論争」と呼ばれる動きはあったが、有耶無耶のうちに収束してしまう。

 なぜ、音楽界だけは例外だったのか。音楽史研究者の間でも、確たる見解はない。矢田さんは「私の想像でしかありませんが」と前置きし、こう続けた。「私の父は当初、私が童謡歌手になることに反対しました。『そのような軟弱な世界へ息子を出す訳にはいかない』と言っていました。当時、世間に音楽を一段低く見る意識がありました。その裏返しで、取るべき責任もない、という考えだったのかもしれません」。

著者情報

俳優、声優

矢田稔

やだ みのる

1931年、東京生まれ。8歳から作曲家の佐々木すぐる門下で童謡歌手として芸能活動を開始。映画「新雪」(1942年公開、大映、五所平之助監督)で映画初出演。主演作に「海の呼ぶ声」(1945年公開、大映、伊賀山正光監督)がある。戦後は、劇団俳優座養成所2期生として演劇を学び、草創期のテレビ界に入る。テレビドラマ「人形佐七捕物帳」「北の国から」など出演作多数。声優としても活躍し、アニメ「鉄人28号」の敷島博士や「それいけ!アンパンマン」のバイキンせんにんなどを演じた。声優の待遇向上運動にも取り組み、2020年に声優アワード功労賞受賞。現在も日本俳優連合顧問、日本声優ユニオン執行役員を務める。

関連記事

新着記事

imidasの最新記事はこちら!