「戦争と平和のリアル」第35回 矢田稔「戦争と想像力」
矢田稔(俳優、声優)
(構成・文/小松田健一)
戦後改作された名曲『汽車ぽっぽ』
戦争責任を希釈化した一例に、戦後に行われた歌詞改作がある。その典型は、矢田さんも歌った『兵隊さんの汽車』だ。『汽車ぽっぽ』と改題され、歌詞も大幅に変えられた。オリジナル歌詞は、軍用列車で戦地へ出征する兵士を見送る内容になっている。『汽車ぽっぽ』の広く知られた1番の最後「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな」は「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」だった。
なぜそうなったのか。敗戦直後の1945年大晦日に放送された『紅白歌合戦』の前身ラジオ番組『紅白音楽試合』で演奏する際、NHKの担当ディレクターが「兵隊さんはいかがなものか」と、急きょ作詞者の富原薫(1905~1975)に改作を求めたのだ。矢田さんは、この歌のレコード録音をした経験から格別な思い入れがあり、「あったことをなかったことにはできない」と、今もこの改作に疑問を抱き続けている。
これ以外にも、戦後に歌詞だけ改作され、現在も歌い継がれる歌はいくつかある。「歌に罪はない。使い方の問題だった」と矮小化してしまったことは、音楽界に禍根を残したと思う。少年だった矢田さんも、責任を感じることはなかった。
「戦犯」意識の芽生え
さて、矢田さんは1946年2月、焼け野原となった東京に戻り、芸能活動を徐々に再開していく。戦時期は歌手と同時並行で子役俳優をしていたこともあり、1949年に発足間もない俳優座養成所に入所し、本格的な演劇修業を重ねる。同期生には小沢昭一さん(故人)がいた。卒業後は主に黎明期のテレビでキャリアを積む。活動の幅は声優にも広がり、外国映画の吹き替えを担い、本格的に製作が始まったアニメでは『鉄人28号』(1963~65年、フジテレビ系)に準主役の敷島博士役で出演した。多忙だったゆえに、自らの戦時期の活動を振り返る余裕はなかったという。
転機は平成を迎えた直後の1989年、突然に訪れた。佐々木すぐる門下で1つ歳上の童謡歌手だった高橋祐子さん(2017年、86歳で死去)と、戦時期を回顧するラジオ番組の収録で対談した。高橋さんは佐々木から歌唱力を最も高く評価されて童謡歌手界のスターとして活躍し、多くの戦時童謡を歌い、レコードに残している。しかし、空襲激化に伴って東京を離れて千葉県へ疎開したのを契機に引退する。戦後は保育士として幼児教育に尽力し、芸能界には復帰しなかった。

矢田さんと高橋祐子さん。1989年8月、都内で。高橋さんの長女の椎名理香さん提供
収録で高橋さんは歌手時代を淡々と回顧し、自分のファンだったという男性から受け取った手紙を紹介する。男性は高橋さんが歌った戦時童謡を聞いて予科練に志願し、特攻隊員となった。出撃前に敗戦を迎えて命拾いしたという男性の手紙に、高橋さんは「『戦犯』の責任を感じますね」とつぶやいたのだ。
矢田さんはその言葉に衝撃を受けた。「自分の歌が誰かを戦場に向かわせたのかもしれないなどと考えたこともなかったが、子どもであったとしても戦争遂行の片棒を担いだ事実に変わりはない。その意味では自分も『戦犯』だ。贖罪のために何かできることはないだろうか」と考えるようになった。
歌を自由に歌うために
2006年からは「山の手大空襲」(1945年5月25日)で大きな被害を受けた表参道で空襲の日に合わせて朗読会を始め、現在も続いている。当日は近隣の小学校から児童が足を運び、耳を傾ける。次世代へ記憶を継承する機会として矢田さんが大切にしているイベントだ。
矢田さんは俳優・声優として今も現役である。毎週日曜日には、アマチュア俳優たちに演技指導をするワークショップを欠かさず開く。音楽史研究者のグループに招かれ、自らの経験を話したこともある。戦時期の音楽界を知る人びとの大半が鬼籍に入り、往時を肉声で語れる人は矢田さんを含めてごくわずかになっている。「自由に歌いたい歌を歌えない時代が、かつてありました。いま芸術や芸能に携わる人たちが、過去の自分と同じ体験をする時代が二度と来てほしくない」との思いが、95歳の老体を奮い立たせている。 (一部敬称略)

子どもたちを前に戦争体験談の朗読会に臨む矢田稔さん(中央)。2026年5月25日、東京