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連載

ポグロムから、難民支援へ。モスクワに抗うロシア人。~ポーランド、2022年夏

第28回

木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)

ハルキウからの避難民女性

 スヴェトラーナ・コトリャーバはハルキウから逃れて来た。2月24日の午前4時に弟からの電話でたたき起こされたという。
「起きて!戦争が始まるよ!」
 受話器を置いた次の瞬間、爆撃音が耳をつんざいた。団地のベランダから外を見るとすでに400メートル先にロシア軍の戦車が停まっていた。驚愕する間もなく、ハルキウの防衛に当たっているウクライナ兵が「ここは戦場になる。10分以内にこの場から逃げて下さい」と連呼しているのが、聞こえた。娘と一緒に車に荷物を積めるだけ積んでその場を離れた。不幸中の幸いだったのは、前日にガソリンを満タンにしていたことだった。

娘とハルキウから逃れてきたスヴェトラーナさん

 6時間の渋滞を経て西ウクライナの都市テルノピリに向かい、しばらく滞在した後、ポーランドへ逃れることを決意した。入国に制限がかかっていないか、心配していたが、国境ではパスポートやIDを持っていない難民も通過が許された。東部の都市ルブリンに辿り着いた。
 この町にある「ウクライナ難民支援センター」は、小学校を全面的に開放した施設で、体育館には、何世帯もの難民家族が生活している。スヴェトラーナは今、ここで寝起きしている。
「最初は学生寮に泊めてもらっていました。3食すべて食事も提供していただいた。こんな良くして下さるとは……」
 行政機関で難民登録をすると、すぐさま18カ月の滞在と就労の許可をもらい、信頼できる雇用主のリストも受け取った。ソリストをしていた娘もまた音楽教師の仕事が見つかった。ポーランドで手厚い庇護を受けながら、それでも心はいつも故郷ハルキウにあるという。

「あなたが記者ならば、ハルキウについて言わせてほしい。ハルキウが今、ロシアとの東の国境を必死で守っている。ガスも水道も途絶えた中で、砲撃を受けながら、80歳の老人たちも一緒に戦っている。侵略が始まった日に私に電話をしてきた46歳の弟も出征しました。ハルキウが負けたら、すべてが終わるのです。ハルキウを助けてほしい」
 弟さんは自ら戦うことを望まれたのですね、と問うと。強烈な怒気が返ってきた。
「好きで銃をとったわけではありません。非戦、反戦、逃げろ、と安易に言葉で言う外国人がいますが、それはこの戦争を知らないからです。戦わなければ、私たちはロシアにすべてを差しだすことになる」

ハルキウの「ウクライナ難民支援センター」は小学校を使った施設

戦車を描く子どもたち

 イェレナ・ジヴァジンスティバは、ゼレンスキー・ウクライナ大統領が生まれた中東部の都市、クリヴィー・リフから、娘と孫と一緒に逃れて来た。開戦当初は銀行で働く娘の仕事を優先させて避難することを躊躇していた。しかし、クリヴィー・リフは軍事施設があったために集中的な攻撃に晒された。孫のキラを連れてシェルターに駆けこむ日常に、疲れ果てた。何より、幼児が教育をきちんと受けられないことを憂いて、親子三代での逃避行を決意した。リヴィウへ列車で脱出し、そこから出ていたルブリン行きのバスに乗った。
「バスの中ではキラが発熱していました。凄い高熱でもう私は生きた心地がしませんでした。けれど、ルブリンのバスターミナルに着いたら、そこにこの二人が救世主のように立っていたのです」

左から、パヴェルさん、イェレナさん、キラちゃん

 傍らの学生を涙ぐみながら、紹介した。カミーラとパヴェル。ルブリンのマリー・キュリー・スクウォドフスカ大学(キュリー夫人大学)で教育学を専攻している二人は、ボランティアで難民支援活動を行っていた。
「彼らはすぐにキラを病院に運んで治療を受けさせてくれました。保険も医療費も何も必要ありませんでした。キラの命の恩人です」
 献身的な看護で快復したキラちゃんは、話すそばから、勢いよくイェレナの背中に飛び乗って来る。

 その命の恩人、カミーラとパヴェルが大切に保持しているものがある。キラちゃんを含む、この施設にいる子どもたちが記憶をもとに描いた戦争の画である。
「戦争犯罪の証拠として私たちは、これを保管しているのです」
 火を噴く機関銃や迫撃砲。戦車や戦闘機という単語さえ知らなかったであろう幼児が描いたテクノロジーの恐怖は、虚飾がなく、見る者に迫る。加藤直樹著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(ころから、2014年)の装丁にある100年前の小学生が描いた朝鮮人虐殺の画を想起させた。

戦車と戦闘機が描かれている

 画を示しながら、カミーラが言った。
「ここの子どもたちも就学の手続きを済ませるとすぐに学校や児童保育所に預けられます。その子たちにウクライナの言語や文化を教えるのもウクライナ難民の教師たちなのですが、私たちはあえてポーランド人のクラスにも入れていす。重要なのは、ウクライナ人の“ゲットー”を作らないこと。ヘイトクライムを防ぐ方法として、民族ごとに固まらず、子どもたちも交わることを意識しています」

 

ポーランドにおけるヘイトクライムの歴史

 ここで、嫌というほど差別煽動の嵐に見舞われたポーランドの過去と、その象徴的な建物をひとつ紹介しておきたい。
 首都ワルシャワの南、キェルツェという都市がある。第二次世界大戦が終結し、ナチス・ドイツが撤退した1946年7月、このキェルツェでヘンリク・ブワシチクという8歳の少年が、親に内緒で以前住んでいた町へ、友だちに会いに出かけた。夜になっても帰らず、心配した両親は警察に届け出た。少年は2日経ってひょっこりと帰って来た。叱られるのを恐れたのか、父親に「ユダヤ人に誘拐されて『ユダヤ人の家』の地下に監禁されていた」と話した。
 市街にあった集合住宅「ユダヤ人の家」には約180人のユダヤ人が生活していた。キェルツェ市民ならば、誰もが知る施設であったが、さらに少年はそこに多くのポーランド人の子どもが拉致されていたと告げたのである。
 この証言が伝播し、住民たちは武器を持って「ユダヤ人の家」に集まって来た。しかし、すぐにこの建物には地下室がないことが判明した。少年の言うことはデマであることが早々に周囲にも分かった。

 ところが、そこから暴動が起こったのである。一度火がついた憎悪の感情は消し難く、警察、市民、軍人が建物に突入、ユダヤ人を引きずり出して、撲殺、銃殺の限りを尽くした。結果、42人のユダヤ人が殺され、数十人が負傷した。ナチス・ドイツではなく、戦後にポーランド市民によってユダヤ人は虐殺されたのである。このポグロム(註1)は、都市の名前から「キェルツェ・ポグロム」として、人々の記憶には残っていたが、共産党政権下のポーランドでは、この事件に触れることを長くタブーとされていた。
 ようやく1989年に「連帯」(註2)が政権を取り、民主化に向けて動きだすと、大統領ワレサ(註3)が正確に記録として残すことを提案した。事件のプレートを「ユダヤ人の家」に掛け、以降、その歴史が語り継がれることになった。この「ユダヤ人の家」が今、ウクライナ難民のために提供されて、住居となっているのである。
「かつてデマによって分断と虐殺が行われた建物を今、隣国からの難民支援のために機能させようとしているのです。つまり過去を学んで未来に繋げていこうということです」とワルシャワ大学で教鞭をとるアンナ・オミ教授は言った。
「ユダヤ人の家」はその歴史を踏まえながら、今、「ウクライナ人の家」と呼ばれつつある。

各国の人々との「対話」をうながす「家」

 コミュニティを表すときに「家」という概念をポーランド人はよく使う。ワルシャワには、通称「東の家」と呼ばれるスペースがある。運営しているアリシャ・グラウザに話を聞いた。
「ここはポーランド人とウクライナ人のみならず、リトアニア人、ロシア人、ベラルーシ人とも対話を進めるスペースとして存在しています。ポーランド以東の国の人々との対話をうながすので『東の家』なのです。何の対話か? まずは土台となる歴史的な対話です。
 今はロシアが侵略したことで、ウクライナへの支援を真っ先に進めていますが、もともと私たちポーランドはウクライナとも大変難しい過去があるのです。過去の歴史の検証すべき問題をおろそかにすることはできません」

「東の家」を運営するアリシャさん

著者情報

ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト

木村元彦

きむら ゆきひこ

1962年、愛知県生まれ。中央大学卒業。東欧やアジアを中心に、スポーツ文化や民族問題などの取材、執筆活動を続ける。著書に『誇り』(98年、東京新聞出版局)、『悪者見参』(2000年、集英社)、『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(05年、集英社新書)、『蹴る群れ』(07年、講談社)、『社長・溝畑宏の天国と地獄』(10年、集英社)、『争うは本意ならねど』(11年、集英社インターナショナル)、『徳は孤ならず』(16年、集英社)、『橋を架ける者たち』(16年、集英社新書)、『無冠、されど至強』(17年、ころから)、『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』(23年、集英社インターナショナル)など多数。『オシムの言葉』(05年、集英社インターナショナル)で第16回ミズノ・スポーツライター賞を受賞。

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