キム・ドンリョン監督が語る韓国ドキュメンタリー映画界の闇と光(前編)~ヤンヨンヒ作品の剽窃事件から見えてくる「386世代」の政治と映画の関係
木村元彦(ノンフィクションライター、ビデオジャーナリスト)
20年前の剽窃問題
最新作『スープとイデオロギー』は2023年毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞を受賞。現在も『ディア・ピョンヤン』『愛しきソナ』『かぞくのくに』など過去作品とあわせた特集上映が各地の劇場で続いているが、その作り手、ヤンヨンヒ監督を長きにわたって苦しめてきた事件がある。

ヤンヨンヒ監督
韓国映画界で起きた前代未聞の不祥事をまず時系列で記す。それは1998年に起きた。当時、ニューヨークに留学中であったヤンヨンヒ監督は、韓国在住のホン・ヒョンスク監督の作品『本名宣言』が釜山国際映画祭でウンパ賞(最優秀ドキュメンタリー賞)を受賞したことを報道で知る。ヤンはこのホンの日本での撮影に協力し、市立尼崎高校の故・藤原史郎教諭の通訳などを請われるままに務めるなどしていたが、その後は完成試写も含めて何の報告もなかった。
やむなく自ら韓国から取り寄せた『本名宣言』のVHSテープを視聴して驚愕する。2年前にヤンがNHK大阪と共同で制作したドキュメンタリー『揺れる心』の映像が、9分40秒にわたって使用されていたのである。自分の姿が登場しているばかりか、ヤンヨンヒ監督が自発的に『揺れる心』の映像を送ったというナレーションが流され、エンド・クレジットにはまるで『本名宣言』のスタッフであるかのように「8mm取材ヤンヨンヒ」と記されていた。映像素材は、ホンから、在日コリアンを知るために参考として見せて欲しいと言われて貸していたもので、使用については何も聞かされていなかった。悪質な著作権侵害を到底看過できるものではない。
ヤンは自作『揺れる心』を、『本名宣言』に賞を与えた釜山国際映画祭とこれを報道した韓国メディア、映画業界団体に送り、剽窃の疑いを審議してほしいと訴えた。一目瞭然の証拠にすべては解決するかと思われた。ところが、釜山の審査委員会は「剽窃にあたらない」という声明を発表したのである。さらに自主映画(韓国では「独立映画」と称する)の監督たちが構成する韓国独立映画協会は、ヤンに対して、「韓国独立映画の名誉を傷つけた」と公式に非難声明を発信した。同協会はこの問題を唯一取り上げた「中央日報」に対しても、「保守紙が進歩的なドキュメンタリスト(ホン・ヒョンスクのこと)に対する言論弾圧を行い、表現の自由を侵害している」と、攻撃したのである。当時のヤンは「朝鮮籍」だったため、抗議をしようにも韓国に入国できなかった。
理不尽なことにそのままこの問題は放置されてきたが、22年が経過した2020年、在ソウルの女性プロデューサーが事件を知り、風化させてはいけないと『揺れる心』と『本名宣言』の比較上映会をソウルで催してくれた。
きっかけはホン・ヒョンスク監督のドキュメンタリー映画『境界都市2』(2009年)におけるスタッフ人件費未支給、及びエンド・クレジットの改竄について、この女性プロデューサーが問題提起したことである。これを知ったヤンヨンヒ監督が、韓国の映画雑誌「シネ21」に、1998年の剽窃問題についての寄稿文を送った。両者は繋がり、その後に比較上映会が開催され、人々は22年後になって初めてこの事件の真相を知ることになったのだ。

『揺れる心』(左)と『本名宣言』の比較映像より
比較上映会には、商業映画の大物であるパク・チャヌク監督も参加していた。パルムドール受賞者(2004年『オールド・ボーイ』で受賞)はこの問題を深刻に捉えて、DKG(韓国映画監督組合)の理事会をすぐに開いて問題提起。事実を知った他の監督たちも憤怒した。
著作権問題だけならば、ヤンとホンの二者間で解決できたはずが、問題は釜山国際映画祭と韓国独立映画界が組織的にこの騒動を隠蔽し、問題をすり替え、矮小化を図ったことであった。98年当時、これを問題視しようとした独立系の映画人たちも、「中央日報」を糾弾する声明に賛同のサインまで求められていた。筆者は2023年6月、ホン監督と、当時、釜山国際映画祭の審査委員をしていたイ・ヨンベ氏、韓国独立映画協会会長のキム・ドンウォン監督に直接、当該問題についての取材メールを送ったが、未だに回答はない(キム・ドンウォン監督には『送還日記』が日本上映された際、筆者はインタビューまでしているので残念でならない)。
一方で、比較上映会後に韓国の若手ドキュメンタリー映画監督たちが作った集団「ドキュフォーラム2020」は、ヤンヨンヒ監督に対して強い支持と連帯を表明し、釜山国際映画祭に謝罪を求め続けている。
いったい何が歴史ある釜山国際映画祭に腐敗をもたらしたのか。また同じ韓国映画人として、一度地に落ちた信頼からの再生を目指し、自浄を怠らない姿勢について、ドキュフォーラムのメンバーとして『本名宣言』剽窃問題を糾弾しているキム・ドンリョン監督に聞いた。

キム・ドンリョン監督
キム・ドンリョンは1977年生まれの女性監督。米軍基地のあるトンドゥチョン市の風俗街で暮らすセックスワーカーたちの生に焦点を当てた作品『アメリカ通り』(2008年)で山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア部門最高賞である小川紳介賞を受賞し、テーマ的続編とも言える『蜘蛛の地』(2013年)でも高い評価を得た。最新作の『妊娠した木とトッケビ』(パク・ギョンテとの共作、2019年)はイメージフォーラム・フェスティバル2020で寺山修司賞を受賞した。
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韓国映画界と民主化闘争の歴史
――98年に起きたこの事件では、釜山映画祭の審査員、韓国独立映画協会の関係者などが、誰が見ても露骨な剽窃を、問題なしとしてしまった。私も今回直接、ホン監督をはじめ当事者本人たちに質したのですが回答が全くなく、過ちに誠実に向き合う姿勢がありませんでした。その背景について、この問題にずっと着目されてきたキム監督からご説明ください。
キム それには、商業映画と異なる韓国独立映画の歴史をまずお伝えする必要があります。ご存知のように我が国の80年代は全斗煥(チョン・ドファン)大統領による独裁政権です。その中で、志のあるクリエイター、すなわち「独立映画人」と呼ばれる人たちは、小規模に映画活動をしていました。彼らは主に大学街で活動する学生で、志向やスタンスはそれぞれ違いました。一部の集団は忠武路(チュンムロ)を目指し商業映画に挑みつつも、魂を売らず資本に対抗しながら製作すると主張していましたし、他には民衆の側の映画をつくることで民主化闘争に参加しようとする集団がありました。彼らは、韓国政府の検閲を受け入れエロを中心とした作品を製作する商業映画を物凄く軽蔑し、「パンファ」と呼んでいました。これは韓国の国内映画を見下した言い方です。
――そうですね。80年代は、日本のレンタルビデオショップに行っても韓国映画のコーナーには今のような活況はなかったですね。
キム 実際、ほとんどの映画ファンは外国映画を観ていました。その間に大学街では、表現の自由についての欲求が大きく膨らみ、自分たちで海外の本を翻訳して学び、8ミリフィルムで映画を撮り始めたんです。ただ、当時は映画はまだ主流芸術ではありませんでした。真に民衆のための文化を作らなければならないという民衆文化運動が流行していて、マダン劇(仮面劇)やタルチュム(面踊り)といった伝統芸能復興のブームがまず先にありました。そこにあとから、映画が入ってきたわけです。
80年代後半には多様な映画運動があったのですが、91年頃に独立映画協議会が生まれました。そのなかで「青い映像」という団体を率いていたのが、キム・ドンウォン監督です。90年代に彼らは検閲を拒否して民主化に関する作品を自主上映する活動を展開しました。政府は官憲を導入してこれを中断させようと動きました。だから独立映画界と警察との間には常に攻防戦、乱闘があり、キム・ドンウォン監督も一度、拘束されたことがあります。私の見解では、キム・ドンウォン監督を中心とした独立映画人と自称する人たちは、このころの体験から、自分たちだけが表現の自由のために権力に抵抗し闘っていたという意識を重ねて行ったと思うのです。やがてキム・ドンウォン監督は98年に韓国独立映画協会を作りました。
――98年……。「『本名宣言』の剽窃問題」と同じ時期ですか。