バブル崩壊
イミダス編
1985年のプラザ合意以降の円高による景気悪化への対策として行われた金融緩和により、過剰資金が株や土地、さらにはゴルフ会員権などに投機目的で流れ込み、その価格を異常に吊り上げた。これによって1980年代後半、実体経済とかけ離れた好景気(バブル経済)がもたらされた。
日本の株式時価総額はアメリカの1.5倍となり、世界全体の45%を占めた。日本全土の土地の資産価格はアメリカの4倍となった。
しかし89年5月以降、日本銀行が金融引き締めに転じると、まず90年に株価が急落し、次いで91年に地価が急落する。これがバブル崩壊である。
しかし1995年に至っても、現在進行中の出来事が後に「失われた10年」「失われた20年」などと呼ばれる長期停滞の始まりだと理解している人は少なく、多くの人はこれを一時的な不況だと考えていた。例えば、しばしばバブルの象徴のように語られるディスコ「ジュリアナ東京」がオープンしたのは91年5月のことである(94年に閉店)。
人々が事態の深刻さを理解し始めたのは、不良債権問題を抱えた金融機関が次々と破綻し始めてからだ。94年12月の東京協和信用組合と安全信用組合の破綻を皮切りに、住宅金融専門会社(住専)や北海道拓殖銀行、長期信用銀行など、大手金融機関の破綻が相次いだ。97年11月に山一証券が破綻した際には、記者会見で当時の社長が「私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから」と泣きながら訴えたことが衝撃を与えた。
91年から2001年までの10年間で、実質GDP(国内総生産)の年平均成長率は1%余り。完全失業率は、1993年に2.5%、94年には2.9%、95年には3.2%へと上昇。ここから、2002年の5.4%までうなぎ上りに増え続けた。自殺者も1991年の約2万1000人から徐々に増え続け、98年には前年の約2万4000人から約3万3000人へと跳ね上がる。
90年代後半以降、構造改革が叫ばれるようになると、終身雇用や年功序列といった日本型の雇用に代えて成果主義が導入される。派遣労働の規制緩和も進み、雇用の一部は非正規に置き換えられ、その後の格差拡大へとつながっていった。