第5回 19世紀の少年ジャンプ?
樫原辰郎(映画監督/脚本家/評論家)
19世紀が小説の時代で、20世紀が映画の時代だと述べたけれども、なぜにそういった文化のリレーが成立したかというと、基本的にはテクノロジーの話なのだと考えてよい。今のところ、21世紀はインターネットの時代だと断言しても、あまり文句を言う人はいないと思う。今はネットで映画が見られるし小説も電子書籍で読める上に、古いメディアである紙の本もネットで買えるし映画館のチケットもスマホで完結する。
人類の歴史は基本的に旧石器時代からずっとテクノロジーの発達の歴史だったんですけど、17世紀のヨーロッパで自然科学が急速に発達する。これを科学革命と呼ぶわけですが、この頃からじわじわとテクノロジーの発達する速度が上がるのだな。
印刷技術が発達すると新聞が誕生する、わけですよ。ちなみに、世界初の新聞は1605年にドイツ語圏で発刊された週刊の『Relation』(レラシオン)誌だとされている。1650年には世界初の日刊紙である『ライプチガー・ツァイトゥング』が誕生している。凄いなドイツ語圏。
どうして新聞というメディアが誕生したのかというと、もちろんニーズがあったからでしょう。新聞が伝えるのは基本的にはニュースで、我々はニュースを知りたいから新聞を読むんだけど、ニュースというのは単なる情報ではなくて物語でもあるわけですよ。
たとえばね、新聞で「我が国は今から某国と戦争をすることになりました」とか、自分の家の近所で「巨大な熊が出没して人を襲っています」というニュースを目にしたら誰だって緊張するでしょう。それは当然だ、自分の生死に関わる問題だからです。ところがね、面白いことに「北海道でヒグマが暴れて何人もの死傷者が出ました」というニュースを見たときに、北海道に住んでいる人たちはもちろん緊張するだろうけれども、北海道民以外の日本人にとっては、それほど急を要するニュースではないはずなのだが、さしあたって熊に襲われる可能性がほぼない九州や沖縄の人たちであっても、言葉にできない危機感を感じるのではないだろうか。これは我々が絶え間なく他人に感情移入をする動物だからである。沖縄に住んでいる人がヒグマに襲われる可能性は限りなくゼロに近いが、我々ホモ・サピエンスは想像力が豊かなので、ヒグマのいない土地に住んでいても、ヒグマに襲われた場合の恐ろしさを、いともたやすく想像してしまう。
新聞や雑誌といったメディアが誕生して、我々は遠く離れた土地の情報も知ることができるようになった。情報革命です。この、新聞と雑誌という活字メディアの誕生が、19世紀を小説の時代にしたのだった。エミール・ゾラやアレクサンドル・デュマといった作家たちは新聞連載という形式で大長編小説を執筆したし、チャールズ・ディケンズは大長編を分冊形式で出版した。これは凄いことだったわけですよ。連載が面白ければ新聞は売れるし、連載をまとめて単行本にすれば同じ文章で二度儲かるわけです。
ちなみに日本初の職業作家と言われる江戸時代後期の戯作者、曲亭馬琴の代表作『南総里見八犬伝』も分冊形式で文化11年(1814年)から天保13年(1842年)まで28年もかけて完成させたもので、18世紀生まれの馬琴は19世紀生まれのデュマやディケンズよりかなり年上だけれども、活動期間が長かったので『南総里見八犬伝』がまだ書き継がれている時期に、イギリスでは月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー』にディケンズの『オリバー・ツイスト』が、フランスでは日刊紙の『シエークル』でデュマの『三銃士』が連載されて人気を博した。これらは同時代の文学なのだ。
曲亭馬琴の代表作『南総里見八犬伝』の挿絵 (提供:akg-images/アフロ)
昔から『源氏物語』や『サテュリコン』、『千夜一夜物語』といった長大な書物は何冊にも分けて出版するしかなかったわけだが、どうやら19世紀の出版人たちは、繋がりのある長い物語をぶつ切りにした断片形式で連載すると、続きが読みたいと思った読者たちの購買意欲をかき立てることに気がついたのだ。これは、物語を受容してきたヒトの歴史の中でかなり重要な事件だった。月刊誌であれ日刊紙であれ、連載小説というのは全体のお話が完結していなくても、そこで語られるエピソードが面白かったら売れるのだ。むしろ、次のエピソードがどうなるのかわからないような状態で「次号に続く!」とした方が、次の号は売れるわけです。
これは凄い発見だった、わけですよ。たとえば『千夜一夜物語』や『サテュリコン』は、1話完結のアンソロジーで、ひとつのエピソードが終わるとまた次のお話が始まる。まことによくできたスタイルなのだが、19世紀の長編小説においては、お話にオチがついていない状態で、「続きは次号で」という、ある意味で無責任な語り口が通用したのである。これが通用したのは、日刊紙なら翌日に、月刊誌なら翌月に続きが読めることが保証されていたからだ。日刊紙、週刊誌、月刊誌という情報メディアのインフラが成立していたからこそ、1話ごとの単位で見ると長い物語の途中の断片でしかないテキストの欠片を商品として流通させることができたのですね。いやもちろん、漫画でも小説でも物語を鑑賞するためには連載の第1話から読むのが好ましいけれども、エンタメを楽しむ際に我々は実際にはそのような受容の仕方をしてはいないのである。たとえば有名な『スター・ウォーズ』という映画のシリーズは、メインの映画が9作あるわけだが、最初に作られたのが4番目のエピソードで、そこから順にエピソード5と6が作られてから、しばらく時間を置き最初に戻ってエピソード1と2と3が作られた後に、またしても時間をおいてからエピソード7、8、9が作られた上に、スピンオフの映画やドラマ、アニメが山ほどあるから『スター・ウォーズ』を初めて見る人はどこから見るのがよいのか?という問題があって、ネット上でもしばしば議論になるわけだが、どこから見てもよいのだ。好きにしてください、としか言えないのであります。
ここで重要なのは、我々は長大な物語の断片だけでも楽しめるということなんですね。我々の脳は常に推論を行っているので、連載小説を途中から読んだり、映画を途中から見たりした場合には、わからないところをあれやこれやと妄想する癖がある。だから、物語の全体像が見えていない状態でも、今読んでいる、もしくは見ている部分が面白く感じられたら楽しめるのだ。
断片だけでも楽しめるし、その断片が面白かった場合には、その物語の全体像を知りたくなって、続きが読みたい!となる。これはもう、ホモ・サピエンスという動物の本能だと断言しても問題ないんですね。なんでかというと、面白いお話の続きが読みたい!という心理は、科学者の探究心と繋がっているからだ。科学の探究には基本的に終わりがないでしょ。科学者というのは、科学的な真理を探究しながら、ひとつの謎が解明されると、さらに深い謎を探究して解明しようとする。その意志は崇高なものなんだけれども、基本的には「もっともっと凄い謎を解き明かしたい!」という欲望がモチベーションになって稼働するエンジンみたいなものだ。