検察庁法改正案と賭け麻雀問題! 官邸による検察人事介入の愚
瀬口晴義(東京新聞記者)
「ツイッターデモ」に象徴される世論の厳しい批判を浴び、政府は検察庁法の今国会(2020年)での改正を見送った。「余人をもって代えがたい」とされた黒川弘務・東京高検検事長は、新聞記者との賭け麻雀が「週刊文春」で報じられ、あっけなく辞任に追い込まれた。刑法に触れることは明らかなのに、訓告という甘い処分に怒りの声がやまない。報道内容を事前につかんだ政府が、先手を打って法案を撤回した可能性もあるだろう。しかし、政権批判のうねりは確実に安倍晋三政権を追い詰めた。検察トップの人事すら、ほしいままに動かしたいという傲慢さに政権の危険な本質を感じ取った人が多かったからだと思う。検察は首相経験者や政府高官らを逮捕、起訴してきた歴史がある。その独立性を揺るがすという批判を軽視したのは政権末期のおごりというしかない。政権支持率は、過去最低レベルまで下がった。河井克行前法相と妻の河井案里参院議員の選挙違反事件で、検察当局は国会閉会後、強制捜査に乗り出す方針を固めている。黒川検事長という「守護神」が去り、安倍政権には最大の危機が訪れている。

自民党のドン、脱税で逮捕
苦い記憶がある。1993年3月6日。土曜の夕方だった。検察庁を担当する司法記者になってから8カ月ほどがたっていた。家の近くのラーメン屋にいたらポケットベルが鳴った。東京地検の次席検事が夜、記者会見を開くからもう一度記者クラブに上がって来てくれという連絡だった。慌てて職場に戻り、他社の記者と腹の探り合いをしていると、高橋武生次席検事(当時)が部屋に入ってきて小さな声で言った。
「本日、金丸と生原(はいばら)を逮捕しました」。一瞬の沈黙の後、記者たちは広報文を奪い合い、速報のために会見場所から走り出た。金丸とは当時の自民党で「ドン」と呼ばれていた金丸信元副総裁。生原とは金丸氏の「金庫番」と呼ばれた生原正久元秘書だ。容疑は所得税法違反だった。
金丸氏は東京佐川急便から5億円のヤミ献金を受け取ったとして、その前年の9月に政治資金規正法違反容疑で略式起訴されたばかりだった。東京佐川急便事件は、政界、財界、暴力団関係企業に巨額の資金が流れたという疑獄である。事情聴取もせず、上申書の提出による罰金刑で金丸氏の捜査を終えた検察は激しい世論の批判を受け、検察庁の玄関前に置かれた石の看板プレートには黄色いペンキがぶちまけられた。
3月6日当日の夕刊で、他紙に「抜かれなかった」ことだけが慰めだった。それでも車で東京拘置所に入る金丸氏の写真を他社に撮られていたたらクビだな、と胃がしくしくと痛んだことを今も鮮明に覚えている。すべてのマスメディアが東京地検特捜部と東京国税局に出し抜かれた。金丸氏を取り調べたのは、後にプロ野球コミッショナーになる東京地検特捜部の熊崎勝彦副部長。東京拘置所に車で入る時、待ち構えていた記者がいなかったため、金丸氏は「記者さんたちに恨まれますよ」と熊崎氏に漏らしたという。
検察の威信回復の「逆転打」につながる情報は、脱税捜査でタッグを組む東京国税局からもたらされた。金丸氏はゼネコンなどから受領した献金で日本債権信用銀行(日債銀)の割引金融債を購入していた。金丸氏に献金していたゼネコン各社への捜査で特捜部は「宝の山」ともいえる重要な証拠物を手に入れ、約4カ月後、仙台市長の逮捕から始まったゼネコン汚職事件が弾けた。清水建設や大成建設、鹿島、大林組といったスーパーゼネコンや中堅ゼネコンのトップらが軒並み贈賄容疑で逮捕され、茨城県、宮城県知事ら自治体のトップが収賄罪で逮捕、起訴された。
94年3月、中村喜四郎元建設相をあっせん収賄容疑で逮捕し、約1年続いた捜査は終わったが、捜査する側はもとより、取材する記者も息をつく暇もなかった。働き方改革が進んでいる今では信じられないが、2カ月間、1日も休めなかった時期もある。

東京佐川急便事件で起訴された金丸信元自民党副総裁(1993年)
検察の取材では、他紙に抜かれた記事の真偽を確認することすら容易ではない。公務員として厳しい守秘義務を課されているのに加え、着手することを事前に新聞に書かれると証拠隠しや容疑者の逃走によって捜査に支障が出かねない。事件の着手が近くなると、普段から固い口が一層固くなる。わずかだが事件の輪郭を教えてくれる情報源ができた時、心からほっとできたことを思い出す。
「エゴスクープ」合戦
当時、私は「きょうにも強制捜査」といった事件着手前に先んじて書く「前打ち記事」を1面に大きく書けるかどうか、に全力を傾注していた。きょう、明日に分かることを大きく書くことの意味がどれだけあるのかなどと考える余裕はなかった。読者不在の「エゴスクープ」合戦に明け暮れていた。
ゼネコン汚職の後も、東京地検特捜部は次々と歴史に残る大事件を摘発した。野村証券前社長らの逮捕で始まった1997年の総会屋への利益供与事件は、第一勧業銀行(当時)に波及、前会長らが逮捕された。山一証券、日興証券、大和証券の幹部も軒並み逮捕された。
金融、徴税、国家予算の立案という巨大権力を有する日本最強の役所である大蔵省にも検察はメスを入れた。第一勧銀への捜索から得た資料から、銀行の担当者が大蔵省の検査担当者らを過剰に接待した実態をつかみ、接待汚職を摘発、大蔵省の庁舎も捜索した。
「ノーパンしゃぶしゃぶ」に象徴される金融機関と大蔵省の癒着が白日の下にさらされた。当時の熊崎勝彦特捜部長が「接待の海」と驚きを隠さなかった過剰接待では、大蔵省、日銀の官僚6人が逮捕、起訴され、大蔵省が財務省と金融庁に分離されるきっかけになった。大蔵省が銀行の箸の上げ下げまで指導するとされた「護送船団方式」は終焉する。
当時、世界最大の経営破たんだった日本長期信用銀行、そして日債銀の最後の経営者は99年、刑事責任を追及され、特捜部に逮捕、起訴された(最高裁で無罪確定)。この頃から「国策捜査」という言葉が聞かれるようになった。
私は計7年3カ月、司法記者として記者クラブに在籍して検察や裁判の取材をした。黒川氏が辞職するきっかけとなった新聞記者との賭け麻雀のニュースに接した時、30年近く前のまだ20代の自分を思い出した。1対1で検事と酒を飲めるようになって一人前と思っていた。2人目の子どもが生まれる直前、清水建設の会長が逮捕され、病院にも行けなかった。家族も犠牲にしてなぜ、そこまで取材に没頭できたのだろうと考えた。それは特捜部の動きが時代を揺さぶる「震源地」そのものだったからだ。
自民党の一党支配が続いた時代、「最大の野党」とも形容された東京地検特捜部はロッキード事件で田中角栄元首相や全日空幹部らを受託収賄容疑で逮捕し、リクルート事件では藤波孝生元官房長官や公明党の代議士らを同罪で在宅起訴した。特捜部が疑獄に斬り込めば政局に激震が走る。リクルート事件では竹下内閣が吹っ飛んだ。東京佐川急便から金丸信自民党副総裁への5億円ヤミ献金事件では自民党が分裂し、細川護熙首相による連立政権が誕生。55年体制が終わる。
官邸の検察人事への介入
著者情報
東京新聞記者
瀬口晴義
せぐち はるよし
1964年生まれ。東京新聞記者。87年に中日新聞入社。東京新聞社会部で司法記者を長く担当。95年3月の地下鉄サリン事件以降、オウム真理教事件の報道にかかわり、元信者や刑事裁判の取材、死刑囚、無期懲役囚との面会や手紙のやり取りを重ねてきた。2009年8月から13年10月まで、東京新聞の朝刊一面コラム「筆洗」を担当。戦後70年の15年には、金子兜太といとうせいこうを選者とした「平和の俳句」を企画、担当した。 著書に『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)、『検証・オウム真理教事件』(社会批評社)ほか。近著に『オウム真理教 偽りの救済』(集英社クリエイティブ)がある。