宗像三女神とは?
川村邦光(大阪大学名誉教授)
こうした宗像三女神の役割を、端的に示すのが沖津宮であり、島そのものが御神体とされる沖ノ島である。ここでは朝鮮半島への渡海の際に祭祀が行われ、多様な奉献物の散在する祭祀遺跡を残している。それは、4世紀末から9世紀、倭の五王から遣唐使の時代にまで及ぶ、古代の神祇信仰の痕跡を豊富に残した祭祀遺跡として貴重かつ著名であり、「海の正倉院」と称されている。この祭祀遺跡は、神の宿る磐座(いわくら)・巨岩群からなり、島の南側斜面、標高80メートルほどに23カ所が見つかっており、1954年から71年にかけて発掘・調査が行われた。現在、発掘された8万点に及ぶ祭祀遺物がすべて国宝となり、宗像大社神宝館に収蔵されている。
江戸時代、黒田藩では沖ノ島の島守を派遣していた。藩士の青柳種信は藩命で沖ノ島の警備役を勤めた際の見聞を『瀛津島(おきつしま)防人日記』に残している。日記には、島に入るには、海で裸になり冷水を浴びて心身を浄める水垢離(みずごり)などの厳重な潔斎をしなければならず、不言様(おいわずさま)といい、島で見たり聞いたりしたことは一切口外しないことや、島からは草木をはじめ一切の持ち出しが禁じられていたことなどが記されている。こうした禁忌によって、祭祀遺跡はかなりよく保存されていたのである。
祭祀遺跡の調査から、沖ノ島祭祀は第1期とされる4世紀後半から5世紀前半の岩上祭祀、第2期とされる5世紀後半から6~7世紀の岩陰祭祀、第3期とされる7世紀後半から8世紀(飛鳥・奈良期)の半岩陰・半露天祭祀、第4期とされる8~9世紀(平安期)の露天祭祀の4期にわたって変遷していった、というのがこれまでの定説だった。祭祀の場が、山中の巨岩の上から次第に平地へと移っていったという考え方である。しかし近年、岩上・岩陰の遺跡は祭場そのものではなく、平坦部で行われた祭祀の終了後に、奉献物を納めた場であったとする説も唱えられている。
巨岩の上や周辺からは、「三角縁神獣鏡」などの多数の銅鏡や、鉄の地金で鉄器の素材とも権威を表す宝物だったともいわれる鉄せん(「せん」は金偏に延)、鉄製の刀剣・馬具・農具・工具、ヒスイ輝石(ジェダイト、中国でいう玉)でできた硬玉製勾玉、石英の変種である碧玉製の腕輪、加工しやすい滑石製の人形(ひとがた)・馬形、金銅製の龍頭・五弦琴、日本最古の彩釉陶器(さいゆうとうき)である奈良三彩などがおびただしく出土している。これらの出土遺物の年代は、古墳時代から平安時代にまで及び、朝鮮半島との交易や軍事などの交流と、関わった祭祀の変遷を示している。
沖ノ島は現在でも聖地として存続している。女人禁制を厳守し、男性でも神職のみが上陸でき、古代以来の禁忌が厳守されている。世界文化遺産登録を機に、この信仰のありようを、どのように未来に継承していくのかが、改めて問われている。
著者情報
大阪大学名誉教授
川村邦光
かわむら くにみつ
1950年生まれ。東北大学文学部宗教学科卒。宗教学・民俗学専攻。天理大学教授を経て、97年大阪大学文学部教授、2016年3月退任。著書に『セクシュアリティの近代』(1996年、講談社選書メチエ)、『ヒミコの系譜と祭祀』(2005年、学生社)、『私にとってオウムとは何だったのか』(共著、05年、ポプラ社)、『憑依の近代とポリティクス』(編著、07年、青弓社日本学叢書)、『聖戦のイコノグラフィ』(07年、青弓社)、『セクシュアリティの表象と身体』(編著、10年、臨川書店)、『弔い論』(13年、青弓社)、『弔いの文化史‐日本人の鎮魂の形』(15年、中公新書)、『出口なお・王仁三郎:世界を水晶の世に致すぞよ』(17年、ミネルヴァ書房)など多数ある。