福島から私たちは何を伝えられるのか
木田 10年前は、原発に対してメディアはもっと怒っていたはずですよね。ところが今では、怒っているのが自分だけなのではないかと思うことがあります。僕は、10年前に原発が爆発したときから、今まで原発は安全だとだまされていたという怒りをずっと持ち続けているんです。この10年で避難した住民たちが帰ることができる地域が増えたり、新しい建物が建ったり、復興したところはあるかもしれません。けれども、何かにケリがついたというわけではない。現場に行くと、まだ帰れない場所が目の前に広がっていたり、100年くらい続いていた地域の祭りができなくなっていたりします。それでいて東京電力が「被害者の方々に寄り添う」と言っているのを見ると、言っていることとやっていることが違うんじゃないかという怒りを今も感じます。
原発被災地で失われたもの
三浦 僕は震災後10年が過ぎても住民が1人も帰還できていない旧津島村(浪江町津島地区)に行くと、あまりの惨状に怒りというより悲しくなってしまいます。その土地でずっと生きてきた人が原発事故でその土地を追われ、知らない土地で暮らす。彼らが奪われたものは、コミュニティや信頼という目に見えないもので、それは決して賠償金では解決できないものなのです。
木田 国や東電に対して除染による原状回復を求めた「ふるさと返せ 津島原発訴訟」の裁判でも、避難先で家を新しく建てて、新しい地域の老人クラブに入っているならそれでいいじゃないかと被告の国や東電側から言われていました。でも、ずっと暮らしていた土地を奪われるというのは、ほとんど人生を奪われたのに等しいものなんです。私は青森の田舎の出身なのですが、自分の祖母がおなじような状況になったら、比喩ではなく本当に死んでしまうのではないかと思います。でも、土地を奪われることに対する心情を言葉で伝えるというのはとても難しいんですよね。

「津島原発訴訟」の取材をする木田修作さん(手前左)(福島県郡山市)
歴史から照らし出す福島の未来
三浦 震災10年というのは、あくまでもメディアや行政がつくった節目にすぎないのだけれど、それでも、福島をこれからどうしていけばいいかということについて考えるきっかけにはなるんじゃないかと思っています。僕は「福島はもっと抗うべきだ」と考えています。処理済み汚染水にしても、福島の原発でつくっていたのは東京の電気なんだから、「安全だというなら東京湾に流してください」と言ったっていいと思う。なぜ福島だけが痛みを負い続けなければならないのか。そんな疑問を強く感じます。
木田 「震災10年」という枠組みの中では、歴史のある福島の震災後わずか10年間のことしか見えてきません。三浦さんの『白い土地』にもありましたが、帰還困難区域の津島地区は、満州から引き揚げてきた人たちが70年前に開拓してできたという歴史があります。
三浦 福島の歴史というのは、東京への「供給」の歴史だと思います。いわきの常磐炭田から石炭を送ったり、冬になると出稼ぎ労働者たちの労働力を送ったり、原子力発電所ができてからは電気を送ってきた。満蒙開拓団として満州に人を送ったのも、日本全国でも福島が多かった。当時はきわめて貧しかったために、長男を残して、他の子どもたちを満州へと送り出していたのです。現在でも、おじいちゃんやおばあちゃんが満州に行っていたという人はたくさんいて、いまだにそのときの痛みが福島の人々のなかには残っているんです。
木田 そういう原発以外の町の歴史から見えるもののなかには、福島に限らない普遍的な課題もあるはずです。福島からあるいは東北から見るこの国のかたちとは何か。住民も忘れているようなその土地の記憶や歴史をひもといて、原発事故によって失われた歴史をこれからも描いていきたいと思います。
三浦 日本は、きわめて資源が乏しい国なのに、工業立国であるという矛盾を抱えています。満州にしても、福島にしても、そのエネルギーを獲得する段階で、失敗していった歴史なのかもしれない。第二次世界大戦の敗戦では、つらい経験を「忘却」することで前に進んで日本は発展してきた。福島の原発事故も日本はまた忘却しようとしているんじゃないか。たしかにつらい経験を忘却しないと前に進めないということもある。ただ、忘却の先にあるのは同じことの繰り返しなのではないか。僕はその忘却に抗うために、人々が感じている怒りや危機感をしっかりと書き残して伝えていきたいと思っています。
