第4回「一般意思」という名の暴力~フランス革命の系譜学
浜崎洋介(文芸批評家)
ここで言われている「一般意志」は、個々人の「特殊意志」でもなければ、それらを足し合わせた「全体意志」でもありません。もし、「一般意志」が、そのような〝量〟に従った概念でしかないのなら、たとえば、多数決によって「自由」を放棄することが決められてしまえば(=正しくない統合の形が選ばれてしまえば)、「(市民は)自由であるように強制される」ことができなくなってしまうからです。
では、私たちが従うべき「一般意志」とは何なのでしょうか?
ルソーの言葉を借りれば、それは、個々のエゴを離れて、社会全体の「共通の利害」を考えることのできる「理性」、つまり、「公共の決議に公平の性格をあたえる利益〔部分〕と正義〔全体〕とのすばらしい調和」を実現することのできる法=主体です。
しかし、それだけでは、ルソーが何を「一般意志」と見做しているのか、その具体的なイメージはハッキリしません。いや、それはルソーにさえ分かっていなかったと言うべきなのかもしれません。その証拠に、「一般意志」の内実を語りながらルソーは、それを「意志を理性に一致させる」ことのできる「導き手」だの、「すぐれた知性」「偉大な立法者」だの、「神々」「天才」「賢者たち」だのという仰々しい言葉で飾り立てるしかなかったのです。つまり、ルソーは、「正しい者は、正しいのだ」と強弁しているにすぎないのです。
しかし、「一般意志」が、経験によっては確かめられない抽象概念だったからこそ、かえって未来を語る革命家には都合が良かったとも言えます。その後に、「一般意志」という言葉は、フランス人権宣言に採り入れられ、「個人」の自由を、「全体」の秩序へと矛盾なく接合するためのマジックワードとして、つまり〝ここではないどこか〟を指し示すデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)として機能し始めることになるのです。
Ⅱ ジャコバン独裁を導いた「一般意志」――フランス革命の暴力と破壊
事実、フランス革命が過激化していくのは、フランス人権宣言に、「法は一般意志の表明である」(第六条)という条文が明記されて以降のことでした。
バスティーユ牢獄襲撃時点では、まだ単なる民衆暴動の域を出るものではなかったフランス革命は、しかし、①人権宣言の採択(1789年8月)から、②国王ルイ十六世の処刑(1793年1月)、そして、③ジャコバン派による革命政府の樹立(1793年6月)に至るまでの流れのなかで、次第に、その「革命」の姿を顕わしていきます。以上の三点に着目しながら、簡単に、「革命」のあらましを描いておくことにしましょう。
バスティーユ牢獄襲撃事件
まず、暴動から革命への転機は、バスティーユ牢獄襲撃事件から約一ヵ月後の1789年8月に発された「封建的特権の廃止」(4日)と、「人権宣言」(26日)によって作られました。
領主の裁判権や教会の「十分の一税」の廃止、全市民に対する公職の開放と、地域特権の廃止などを宣言した前者によって、それまでフランス社会を支えていた身分制社会を解体した国民議会は、続けて「人権宣言」によって、自由で平等になった市民のなかに国家の「一般意志」を認める宣言を出すことになるのです。つまり、それまであった伝統的社団体制(中間団体)を否定し、それに代わって、一人一人の「理性」のなかに国家をまとめ上げるための〈権力=一般意志〉を見出すこと、それがフランス人権宣言の意味だったのです。
そして、その方向性をさらに加速したのが、フランス国王ルイ十六世のヴァレンヌ逃亡事件であり、その延長線上で起こった国王処刑でした。
「封建的特権の廃止」で、その身分制と社団(様々な中間団体の特権)が否定されてしまったからと言って、まだ、その存在(権威)までは否定されていなかった国王は、しかし、1791年6月に起こったヴァレンヌ逃亡事件(革命の激化を恐れた国王が国外逃亡を試みた事件)によって、国民からの信用を完全に失ってしまうことになるのです。人権宣言が出された後も、まだ立憲君主制の可能性を残していたフランス王室は、しかし、この国外逃亡事件によって、「外国勢力と結託した裏切り者」、「国民をないがしろにする暴君」というイメージを自ら呼び寄せてしまい、その権威と信用を地に落としてしまうのでした。
その後、国民議会でも立憲君主派であるフイヤン派に対して、共和派のジロンド派が台頭してくることになりますが、王権の息の根を完全に止めたのは、皮肉なことに、フランス国王の地位保全を求めるオーストリア=プロイセン連合軍による対仏戦争でした。
戦争の最中、フランス軍の敗北と退却が伝えられると、その報せに危機感を募らせたパリの民衆は、武装蜂起をしてテュイルリー宮殿を襲撃、「外国勢力との結託」が疑われた王権を停止し、その半年後の1793年1月、ついにルイ十六世を処刑してしまうのです。

ロベスピエール
そして、ここで見落とすべきでないのは、フランス革命がその歯止めを失ってしまったのは、この国王処刑を契機としていたという事実です。国王の存在が、社会に多様に根を張る社団=様々な中間団体を統合する要をなしていただけに、その処刑はフランス社会の正統性に動揺をもたらし、それを収めるために、あの「一般意志」の理念がより強調されていく……、そのような経緯を辿りながら、次第に「革命」は過激化していくのです。
国王処刑を契機として、イギリスを中心とした第一回対仏同盟(英国首相ピットの提唱で成った、フランス革命拡大阻止のための軍事同盟)が結ばれますが、そんな内外の非常事態に際して台頭してきたのが、共和派=ジロンド派を追放して、よりラディカルな中央集権化と経済統制を追求するジャコバン派でした。そして、その中心にいた人物こそが、何よりもルソーを崇拝する若き革命家=ロべスピエールその人だったのです。
かくして、ロベスピエール率いる革命政府は、伝統的社団から解き放たれた「自由で平等な個人」をまとめ上げるべく、要するに、バラバラになった国民を一つの「全体」へと統合するべく、様々な「革命」へと乗り出していくことになります。
革命に相応しい愛国者を養成するための教育改革(ブエキ法案)、革命暦の導入(グレゴリウス暦の廃止と、暦における十進法の採用)、キリスト教や王政を連想させる地名や街路名や市町村名の変更、アンシャン・レジーム下での身分関係を連想させる言葉の撲滅(言葉狩り)、第一身分を形成していたカトリック教会への攻撃と非キリスト教化運動の推進、そして、過去の宗教シンボルに代わる「自由と理性の女神」の創設(ジャコバン派のエベールによる)、また、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」という考えの下に執り行われた「最高存在の祭典」(ジャコバン派のロベスピエールによる)など……、それらの政策は、単なる外形的な統治を超えて、人々の「心の習慣」にまで手を入れ、古い人間を「新しい合理的人間」に作り変えるための文化革命の様相を呈していました。
そして、ここでも、革命の中心にあって、その運動を導いた理念は、第3回の連載でも記しておいた「理性」と「自由」の理念だったのです。たとえば、ロベスピエールの言葉を、国王処刑直前の演説と、革命政府樹立後の演説から二つ引いておきましょう。
「〔私は、ジャコバン・クラブを専制支配していると批判されるが〕だがそもそも、世論による専制支配、とりわけ、諸君自身がいっているように、最も熱烈な愛国者とみなされている一五〇〇人の市民から構成され、自由な人間からなる協会(ジャコバン・クラブ)における世論による専制支配とはいったい何を意味するのかが、私にはわからない。もしそれが諸原理の当然の支配を意味するのであれば、話は別であるが。ところで、この支配は、それらの原理を述べる特定の人間に属するものではなく、普遍的な理性の支配、そしてこの理性の声を聞こうとするあらゆる人びとの支配なのである。それは、憲法制定議会の私の同僚の、立法議会の愛国者の、そして自由の大義をつねに擁護したあらゆる市民の支配なのだ。」(1792年11月5日、国民公会でのロべス・ピエールの発言、松浦義弘『ロベスピエール 世論を支配した革命家』山川出版社)