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連載

保守思想入門

第5回 エドマンド・バークの思想

浜崎洋介(文芸批評家)

Ⅰエドマンド・バークの人生と、その経験主義

   前回の連載では、ルソーによる「一般意志」の思想と、それに導かれたフランス革命、そして、その中から次第に現れてくるヘーゲルからマルクスに至るまでの「左翼」思想の系譜について述べておきました。言ってみれば、それらの思想は、〝今、ここ〟にある現実へのルサンチマンを駆動力としながら、部分(個人)と全体(社会)とが交差する政治的な一致点(目的=end)を、〝ここ(障害)ではないどこか(透明)〟に、未来先取的に描き出そうとするロマン主義的な政治運動として定義づけることができます。
   が、まさに、その「左翼」によって過激化していったフランス革命の最中、彼らの理念性を徹底的に批判する人物が、隣国イギリスに現れます。
   後に「保守思想の父」と呼ばれるエドマンド・バークです。
   しかし、その発言や履歴を確かめれば分かることですが、バークの政治信条は、どちらかと言えば、リベラルなもの(自由と寛容の擁護)でした。バークは、フランス革命さえなければ、〝輝かしい業績こそないものの、気骨あるリベラリスト〟として、その一生を全うしたはずだったのです。その意味で言えば、後世、まさか自分が「保守思想の父」と呼ばれることになるだろうとは、バーク自身、夢にも思っていなかったでしょう。
   では、バークを反=フランス革命へと導いたものとは一体何だったのでしょうか?
    結論を先取って言ってしまえば、それは、おそらくアイルランドを故郷に持つバーク自身の複雑で、一筋縄ではいかない人生だったように思われます。頭で作り上げた理念や観念ではいかんともしがたい現実を前に、それを引き受け、そこに何とか自分の人生を作り上げていった人間にとって、リベラリズム(自由と寛容の擁護)とは、目指すべき理念(~への自由=積極的自由)であるより前に、他者と折り合いをつけ、自分の生き方を作り上げていくためのささやかな方法(~からの自由=消極的自由)だったと言った方が正確でしょう。のちにバークは、「わたくしは、生涯の一歩ごとに、パスポートをみせなければならなかった」(水田洋「イギリス保守主義の意義」『世界の名著34 バーク、マルサス』中央公論社)と語っていたと言いますが、要するに、故郷から離れたロンドンで、人脈や財産の後ろ盾をもたぬまま、社会の階段を一段一段と上っていくしかなかったバークにとって、「自由」とは、現実否定のルサンチマンを刺激する言葉ではなく、周囲との関係を調整するための処世術の別名だったのです。

エドマンド・バーク

   実際、バークの人生は、その生まれからして複雑でした。
   バークの生まれ故郷であるアイルランドは、当時、イングランドの植民地として従属的な地位にありましたが、その関係は、そのままバークの家族関係にも反映されていました。父親のリチャード・バークは、アイルランド財務裁判所の法律家であり、その妻メアリは、アイルランドの名門ネーグル家出身の女性だったのです。つまり、ノルマン貴族の末裔でもある父親の家系は、改宗した英国国教徒・プロテスタントとして支配階級の立場にあったのに対して、アイルランドの土地とより密接に結びついた母親の家系は、アイルランド・カトリックを守る被支配階級の側にあったということです。しかも、それはそのまま、家庭内の教育にも反映されていたようで、バーク家の男子は英国国教徒として、女子はカトリックとして育てられていたと言いますから、その心理的なアンビバレントは激しいものだったと推測されます。そして、そのことが、後にバークの複雑な性格と行動――自身はイングランドで政治家になった国教徒・プロテスタントでありながら、しかし、アイルランドのカトリックの権利擁護のために立ち上がるなどの政治的行動――を育てることになったのでした。
   その後バークは、国教徒のための大学であるダブリンのトリニティ・カレッジでリベラル・アーツを学ぶことになりますが、二十歳になった頃から(1750年)、いよいよロンドンのミドル・テンプル(法学院)に入って、本格的に法律の勉強を始めることになります。しかし、ダブリン時代から、友人たちと文芸誌『リフォーマー』を出すなど、若いころから文学・芸術活動に入れ込んでいたバークにとって、父親によって敷かれた法律家のレールは性に合わなかったのでしょう。実務家の道を放棄したバークは、その後に、文筆活動の道へと進み、ほどなくして、『自然社会の擁護』(1756年/匿名)と、『崇高と美の観念の起源』(1757年)を刊行することになるのです――ちなみに、それらバークの初期作品については、同時代のヒュームやアダム・スミス、ヴォルテールやモンテスキュー、レッシングやカントなどとの関係があったと論じられています――。
   そして、その成功によってバークは、ようやくイギリス社会での足掛かりを得ることになるのですが、しかし、それでもジャーナリズムの世界だけで生活していくことは難しかったようで、次第に、政治の世界へと近づいていくことになります。
   1759年、政治家W・G・ハミルトンの秘書となったバークは、ハミルトンのアイルランド総督ハリファックスの秘書長就任(1761~64年)と共に、支配者側の人間として故国に帰っていきます。が、ハミルトンとは間もなく決別。その後、ホイッグ党の立役者ロッキンガム侯の秘書となり(1765年)、同年、侯の支援を受けて下院議員となって以降は、フランス革命までの約三十年間を、ホイッグ党の有力な議員・論客として活動することになります。そして、その間も、国王ジョージ三世の影響力から下院を守ろうとするロッキンガム派ホイッグとしての活動にしろ、イギリス本国の利害のみを重視したアメリカ植民地政策やインド植民地政策の不当性に対する批判にしろ、バークは、一貫して〈帝国全体の調和と安定を図るための政治〉に身を挺することになるのでした。
   要するに、バークは、現実否定の政治理念、つまり、過去の軛(くびき)から自由になった「個人」とその「権利」などという思弁的観念から政治を導くのではなく、その反対に、いま生きられている現実と、その関係を引き受けるところから政治へと向かっていったということです。何が取り換え不可能な基礎(土台と柱)で、何がリフォーム可能な部分(外壁や屋根)なのかを見定め、その基礎と部分との絶えざる調整によって、イギリス国家における「最小の動揺と最大の連続性」(ウィリアム・ジェイムズ)を実現すること、その実践に身を捧げることになるのです。
   その意味で言えば、自由で平等な個々人の契約によって社会を立ち上げようという社会契約論的思考はバークとは無縁なものでした。もし、バークが「契約」という言葉を口にすることがあっても、それは次のような〝時間〟を孕(はら)んだ概念としてでした。

「たしかに社会はある種の契約によって生まれます。契約も、たんにおりおりの利益を目的としたごく些細な契約なら、好きに解約することもできるでしょう。しかしごく一時的な利益のために締結した契約で国家を作り出したり、当事者の気の向くままに国家を解消したりできると考えるべきではないのです。〔中略〕というのは国家は、ただひととき存在して滅んでいく〔人間という〕粗野な動物的存在だけに役立つ協力協定で作られるものではないからです。国家はすべての学問についての協力協定によって、すべての技芸についての協力協定によって、すべての徳とすべての完璧さについての協力協定によって作られるのです。こうした協力協定の目的は何世代つづいても実現できないほどのものなので、生きている人びとだけが結ぶ協力協定ではすみません。それは生きている人びととすでに死んだ人びととの間で、またこれから生まれてくる人びととの間で結ばれる協力協定なのです。」『フランス革命についての省察』二木麻里訳、光文社古典新訳文庫、〔 〕内引用者、以下同じ

著者情報

文芸批評家

浜崎洋介

はまさき ようすけ

1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。

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