「大学入学共通テスト」と「新学習指導要領」によって「国語」教育は劣化する<br/>~英語の民間試験導入だけではない!「国語」だって記述式試験や教育改革で大混乱?~
紅野謙介(日本大学文理学部学部長)
象徴的なのが、「大学入学共通テスト」のプレテストに現れる種類の異なる複数の資料である。「新学習指導要領」でも同じく強調されているのが、文章だけでなく、図表やグラフ、写真などの異なる資料をまたいで、適切に情報を把握し、構造的に理解するという教材形式である。笑ってしまうのは、プレテストには「国語」の問題の至るところで、また他の教科でも、この複数の資料が氾濫していたことである。よほど図表やグラフが好きなのだろう。明らかにこれは「読む」ことに属する学習のはずである。
ところが、図表やグラフなどから情報を抽出することは、出題者にはどうも情報の読解と認識されていない。情報と情報の関係付けをさかんに求めるのだが、その情報は資料を「読む」ことを通してしか得ることはできない。図表やグラフ、写真などを「読む」ことがどれだけたいへんか。私たちはすでに統計データの改ざんや見せ方による解釈の偏向、フェイク画像によってさんざんだまされてきた。これらの資料の真偽を見極めながら、そこに隠された複数の情報を読み解くことこそ、これからの大事なリテラシーではないか。
しかし、「新学習指導要領」に基づく授業モデルは、こうしたリアルで実際的なリテラシー教育ではない。「アクティブ・ラーニング」という名の下に、話し合いをしたり、文章を書いたり、相互チェックをしあったりすることが「国語」の中心に置かれている。でも、どうだろう。会議をしたようなふりをして合意し、画に描いたようなセリフを言うことで、話し合いのロールプレイをすることにならないか。もっと、正直なガチの話し合いについては、引っ込み思案で腰が引けていて、先に妥協することを考えてしまうような日常を過ごすことになるのではないか。同年代とはいえ、見知らぬ他人のなかに放り出され、学校という管理空間に閉じ込められたら、率直に話し合うようになるまでにどれだけの時間と手間が必要か。うかつなことは言えない、そんな緊張感に満ちた生徒たちの間で実現するのは、ほどほどの「コミュニケーションごっこ」であろう。
まず、教員がその「ごっこ」遊びを演じているではないか。官僚もまた同じである。さらに企業人がその典型である。そうでなかったら、LGBTの人たちはもっと早くにカミングアウトできただろうし、いじめやハラスメントがここまで隠蔽されることはなかっただろう。「学習指導要領」改訂派の授業モデルには、多数決を乗り越えた議論をしようという単元があるが、合意形成に向けたマップを事前に作る授業は、ゴールの決まった双六遊びに過ぎない。簡単に結論が出ないにもかかわらず、議論をしたようなふりをすることは百害こそあって一利にもならない。多様性とは両立しえない互いの差異を認めることからしか始まらない。しかし、「学習指導要領」改訂派の見解からは、口先で多様性を語ることしか出てこない。「話すこと・聞くこと」「書くこと」によって主体性を引き出すというとき、個々の主体性をぶつけ合うことの怖いほどのリアリティがここにはない。「多様性ごっこ」は真の多様性を損ねる。そのことを私たちはあらためて学ばなければならないのだろうか。
言葉の通じ合わない社会?
教育はつねに大人である私たち自身の「鏡」としてある。私たちの弱点、欠けているところを踏まえなければ、生徒たちの心と体に届く言葉にはならない。
たしかに、これまでの「国語」教育が全面的に肯定できるわけではない。与えられた教材を受け身のままでとらえ、出来合いの解釈をただひたすら伝え、覚えさせるような授業もあったかもしれない。しかし、そうした授業をしてきた教員は、恫喝して「アクティブ・ラーニング」をやらせたからといって劇的に変わるはずがない。そのような教員を生み出す環境を作ったのは文科省であり、私たちの社会である。残業代も出なければ、休日祝日の出勤を当たり前とするような労働環境を放置し、仕事を増やしつづけてきたのが文科省である。「国語」は言葉の教育をめぐる科目である。教員同士がアクティブになれず、主体的かつ対話的になれない状態のままで、「アクティブ・ラーニング」の方法論をどんなに磨いても効果はない。
「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読むこと」は、言語活動の4つの領域であるが、すべてがバランス良く独立して機能しているものではない。「読む」ことを通して、生徒たちはさまざまな言葉や文体を知り、共感や反発を通して「話す」べき、「書く」べき言葉を自らの内に生み出していく。最初から人間の内部にあふれ出るような主体性があるととしてそれを前提にしたら大間違いである。「読む」こと、「聞く」ことを通して刺戟を与えつづけること、それにより生徒たちが「話す」言葉、「書く」言葉を見つけることになる。「読む」「聞く」から、「話す」「書く」へ、こうした連続性のある総合的な言語教育こそが重要なのではないか。話したつもり、書いたつもり、学校はそんな「ごっこ」遊びで行きましょう──このままだと「新学習指導要領」はそう言っているように見える。しかし、その結果、現れてくるのはほんとうに言葉の通じ合わない社会である。それは絶望的なディストピアである。
著者情報
日本大学文理学部学部長
紅野謙介
こうの けんすけ
日本大学文理学部学部長。1956年東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程中退。専攻は日本近代文学。著書に『書物の近代 』(ちくま学芸文庫、1999)、『投機としての文学』(新曜社、2003)、『検閲と文学』(河出ブックス、2009)、『物語岩波書店百年史1「教養」の誕生』(岩波書店、2013)など多数。近著として『国語教育の危機』(ちくま新書、2018)、さらに『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書、2020)を出版予定。