第2回 絶望したときどうするの?(前編)
川口好美(文芸批評家)
みなさんは〝絶望〟したことがありますか?
話をわかりやすくするために、定期テストの成績が悪くてガッカリ……みたいなものは、〝絶望〟に含めないことにします。どうして点数を取れなかったのでしょう。授業中寝てたとか、宿題を真面目にやってなかったとか。そういう具体的な理由があれば、これからどうすればいいかを考えられますね。そうすれば、はじめはショックで目の前が暗くなるように感じた出来事にも、落ち着いて向き合えます。
では、交通事故にあったと想像してみましょう。もしもあなたが、夜の暗い道を反射板をつけずに歩いていたのなら、それが原因だとわかります。でも、そういう納得できる原因が見つからない場合は、困りますね。軽いケガですめば、運が悪かっただけと思えます。でも、この事故で取り返しのつかない大ケガをしてしまったとしたら、あなたはずっと、こんなふうにグルグルと考え続けるのではないでしょうか。
他の人たちと同じように歩いていただけなのに、なぜ、自分だけが車に衝突されたのだろう。なぜ自分は、あの日、あの時間に、あの道を選んだのだろう。悪いことはしてないのに、どうしてよりによって自分が……
事故や災害だけではありません。家族との関係でも、友人との関係でも、同じように原因も理由もわからないまま苦しい状況に追いこまれることがありますよね。そんなときわたしたちは、これまで当たり前だった世界の状態から、自分ひとりだけがいきなり見放されたと感じて、深い衝撃を受けます。むずかしいことばを使いますが、この世界は「不条理」だ!と感じるのです。

ここでちょっとだけ、わたし自身の話をしますね。
わたしの両親は、わたしがまだ小さいうちに離婚しました。そのため家には母しかいなかったのですが、母があるときから、いわゆる〝こころの病〟になりました。わたしは、とつぜんいなくなってしまう母を、真夜中に探しに行ったりしました。そんなことが続くと、ぐっすり眠れなくなりますよね。母が買ってきた高価な鍋を、どこの店で買ったのかを調べて、返しに行ったりもしました。どうして店の人は、病人に何十万円もするものを売ったんだろうと、腹がたちました。それが何年か続いたあと、わたしが高校生になった頃には、一年間のうち半分以上は入院している状態でした。
わたしの経験は特別ではなく、よくあることです。でも、なぜ自分だけがこんな目にあわなくちゃいけないの?とすごくギモンに思っていました。医学の本には、母の病気にかんする説明が書かれていました。でも、病気の原因や治療法を知っても、納得も安心もできませんでした。交通事故の原因が、わき見運転だったとわかっても、なぜ自分が車にひかれたのか?の答えにはなりませんよね。それと同じです。
出来事が起こるのは、すべて偶然ですよね。あの日、あの時間に、あの道を歩いていたことの意味。わたしがこの親から生まれた理由。わたしがこの国で育った理由。いくら考えてもわかるはずありません。ふだんはそんなことで悩みません。事故や事件にまきこまれたとき、病気になったとき……。そんなときだけ、ただの偶然の意味や理由を考え、悩んでしまうんですね。そしてさいごには、どうして自分が?……なぜ自分が?……と、同じ場所をえんえんと、グルグルとまわることになってしまいます。
つまり、〝絶望〟って、わたしがわたしであることの、意味や理由を問うことなのだと思います。そこに意味や理由なんてないのに。どれだけ考えてもわかるはずないのに。だから苦しくて、辛いのだと思います。
これは、すごく人間らしい弱さだと、思います。
科学技術が発達したおかげで、わたしたちは、昔の人にはわからなかった出来事の原因や意味を理解できます。あらかじめ予測できる災害や事件、予防できる病気も増えました。でも、人間がいくらかしこくなっても、わたしがわたしであることへのギモンは解けません。でも、ギモンを持つことをどうしてもやめられないのです。だから、さまざまな出来事が偶然に起こり続けるかぎり、そしてわたしたちが、それぞれ一人一人のわたしであるかぎり、この世界から〝絶望〟はなくならないのですね。
ところで、子ども時代のわたしは、もう一つギモンを持っていました。それは、どうしてこんなに困っているのに、父は助けてくれないんだろう?というものです。成長するにつれて、父はただの他人なのだから期待してもムダだという、さめた気持ちも出てきました。それなのに、心のどこかで父にこだわっていたのは、子どもながらに、〝神様〟みたいなものへの小さな希望を持っていたからだと思います。わたしの苦しみの意味や理由をわかっていて、すべての責任を取れる存在が、どこかにきっといるはずだ。そうじゃなきゃおかしい!って。
これも、死んでも死なないを考えるのと同じで、手に入らないものを欲しがるという、人間の特徴のあらわれかもしれませんね。
みなさんは、そんなの思い込みだ、ってツッコみたくなりましたか? その気持ちわかるかも、って思いましたか? そのときのわたしは不安で、おびえていました。けれども、そうじゃなきゃおかしい!という思いにだけは、強いなにかを感じました。そのことを、よく覚えています。
内村鑑三なら、こう言うでしょう。そのとき、あなたの〝絶望〟のそばに、神がいたんだよ、って。内村さんはよく、こんなたとえを使って、このことを説明しました。もともと光があったから、光をキャッチする目が発達したんだ。目があったから光ができたんじゃないよね。それと同じで、人間の限界を超えたなにかが存在するから、その存在をキャッチする心が発達したんだよって。〝絶望〟はそういう心が育つための、大切なチャンスなんだ、というわけですね。
〝絶望〟しても仕方ない。考えてもわからないことは、考えないほうがいい。
〝絶望〟はチャンスだ。考えてもわからないことだからこそ、真剣に考えたほうがいい。
どちらが正解でしょうか。答えは、簡単には出ない気がします。ですが、内村さんの生き方全体をふり返ると、〝絶望〟はムダではないな、と思えます。内村さんの人生が、〝絶望〟をきっかけに深く、大きくなったことは、たしかだからです。
すみません、寄り道のつもりが、長いまわり道になってしまいました。次回は、世界一有名な〝絶望〟の本、『旧約聖書』のなかの「ヨブ記」を取り上げて、この〝絶望〟の話をまとめましょう。それでは、さようなら。