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特集

「1995」再考

1995年を知るための10冊

奥 憲介(文芸批評家)

5『東電OL殺人事件』 佐野眞一 

『東電OL殺人事件』 佐野眞一 新潮文庫 2003 

【紹介】
 慶応女子高から慶応大学経済学部に進み、東大卒の父と同じ東京電力に入社。女性でありながら管理職に登用され、30代半ばで年収は1000万円を超えていた。週5日真面目に会社に通っていた彼女は、しかし夜になると一変し、渋谷円山町のラブホテル街で見知らぬ男性に声をかけ体を売っていた。そしてある夜、人気のないアパートで命を落とした。逮捕されたのは、その日の客の一人であったネパール人だった。
“エリートOL”の夜の顔と“不法滞在の外国人”というわかりやすい構図に、マスコミも世間も飛びついた。女性の行動が面白おかしく報じられ、論者たちが事件の解釈を競い、被害者のプライバシーは次々と暴かれていった。
 彼女が殺害された日は、野村証券や第一勧銀の金融スキャンダルが表面化した日でもある。巨大な不祥事の裏で、薄暗い夜の街の底に消えた“エリート”女性の死は、あまりに無残で寂しく、そして孤独だった。胸をつかれるような事件の痛ましさは、崩れゆく日本社会を象徴する出来事だった。逮捕されたネパール人は15年の服役を経て、再審で無罪となった。事件は警察と司法のずさんさだけを残して今も未解決のままだ。
【解題】
 この事件が起こった時の世間の反応を佐野眞一は「発情」と書いているが、私の実感も同じだった。女性総合職の苦悩と孤立と挫折、学歴出世主義への懐疑と弊害、女性の性の商品化、美と醜を巡るヘゲモニー、司法の暴走と外国人差別、精神疾患への無理解、事件関係者のプライバシー保護など、本事件の観点は数多くある。いずれもバブル崩壊後の社会不安と価値観の崩壊という時代性として通底している。援助交際が社会問題として認識されるようになってきた時期でもあった。類似のことが多発する今なら「生きづらさ」という便利なワードで括られ、片付けられるかもしれない。だが、どれも一人の殺された女性を匿名の中に追いやってこそ成り立つ考察だ。
 会社の仕事を終えた後、1日4人の客を取るというノルマを自分に課し、駐車場での性行為さえ厭わず、最後は2000円で体を売り、自分の心身を痛め尽くした彼女の内なる衝動は、何かの代償であり、証明であり、抗いであり、訴えでもあり、そして痛みであったろう。だが、一人の女性の死には、いかなる解釈も分析も届かないような空洞が今なお残っている。
 この事件が露わにしたのは、一人の女性の痛みが、同時代を生きる者の心の奥に潜むひずみを剝き出しにしたという事実である。そのひずみは静かに蓄積し、膨張し、やがて自他を蝕む病理へと変わっていった。剝がれた闇が、とりわけ若い世代の内側に広がるのは時間の問題だった。

著者情報

文芸批評家

奥 憲介

おく けんすけ

1969年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。東日本大震災、福島第一原発事故をきっかけに本格的に文学評論に取り組み始める。会社員として勤務する傍ら執筆をつづける。「開高健論~非当事者性というフロンティアを生きる」で2018年すばるクリティーク賞佳作。戦後文学、現代社会をテーマに文芸誌等で活動をしている。著書に『「新しい時代」の文学論 夏目漱石、大江健三郎、そして3.11後へ』(NHKブックス)がある。

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