なぜ人は声を上げるのか 〜日本と世界、各地のデモと韓国の『とにかく、デモ!』
雨宮処凛(作家、活動家)
2026年上半期、ある場所に「若い女性」がたくさんいることが大きく報じられた。
それはデモの現場。
今年2月、自由民主党が衆議院議員総選挙で圧勝し、高市早苗首相が憲法改正に前のめりな姿勢を見せ、また月末にはアメリカとイスラエルによるイラン攻撃が勃発。その頃から国会前でデモが開催されるようになったのだ。
ホルムズ海峡封鎖によって世界経済が大打撃を受ける中、参加する人はどんどん増え続け、3月10日には8600人、3月25日には2万4000人、4月8日には3万人に。5月29日には1万人、7月10日には2万7000人、8月19日には1万5000人が参加し(いずれも主催者発表)、国会周辺は定期的に参加者たちの掲げるペンライトで光の海と化している。アクションは東京の国会前だけでなく、北海道から沖縄まで、全国100〜300カ所で開催されている。
参加者が掲げるプラカードに躍るのは、「せんそうはんたいなので憲法まもる」「アメリカの戦争手伝うために9条壊すな」、またホルムズ海峡への自衛隊派遣に関して「自衛隊員の命 アメリカに差し出すな」などの言葉たち。「戦争やめろ」コールと並んで、高市政権が推し進めようとする憲法改正やその他の政策に反対するコールも多い。
そんなデモでコールし、ステージを固めるのは若い世代の女性たち。
中心となっているのは「WE WANT OUR FUTURE」というグループだ。活動をスタートさせたのは22年。20〜40代の会社員、自営業、団体職員、若手研究者、アーティスト、フリーランスなど有志の緩やかなつながりからなるとのこと。これまで国会正門前や首相官邸前にて自民党の裏金問題に対する抗議集会、渋谷・新宿で気候危機や戦争反対を訴えるデモ、高市首相による台湾有事発言撤回を求めるアクション、政治を学ぶ勉強会やポッドキャストなどさまざまな活動をしてきたという。
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そんな現場に「若い女性が多い」ことをメディアは興奮気味に伝えているのだが、まるで「突然変異」のように語られることには少し違和感があった。
なぜならこの10年ほど、あらゆるデモやアクションの現場に若い世代の姿は当たり前にあったからだ。それはガザ虐殺への抗議アクションだったり反ヘイトの場だったり、学費値上げ反対や気候変動デモなど。イシューによっては見事なほどに若い世代しかいないという光景も目にしてきた。
しかし、これらの動きに多くのメディアは無関心だった。それが今回、国会前で大規模な運動となった途端、「若い女性が!」とこの国の「男社会」がことさらに「事件」としているように見えてしまう。背景にあるのは、「モノ言う女」への物珍しさだろう。そもそも、女性が政治的な意見を持ち、行動するということがこの社会では想定されていなかったのだ。しかし私が現場で見る限り、中心になっているのは若い女性であるものの、デモに集まるのは老若男女としか言いようのない、あらゆる世代の人々だ。
ちなみに「若い女性が!」という言説に違和感を抱くのは、同様の「憲法守れ」という運動を以前から知っていることもあるかもしれない。私は20年ほど前からそれらの運動に参加したり集会などに呼ばれて話したりしてきたが、活動を担う中に多いのは中高年の女性。が、これまでメディアはなんの関心も示さなかった。それが同じことを「若い女性」がやり始めた途端、メディアが群がる。この構図に、ちょっとした気持ち悪さを抱くのは私だけではないだろう。
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さて、そんなデモだが、私は20年近く前、自らを「デモジャンキー」と自称していた時期がある。
それは06年からの数年間。私はこの年から20年にわたって貧困問題に取り組んでいるのだが、きっかけはこの年の4月に参加したあるデモだった。
当時の総理大臣は、「自己責任」でおなじみの小泉純一郎氏。世の中は「戦後最長のいざなみ景気」などと言われており、しかし、じわじわと格差が拡大していた頃。「非正規雇用」という言葉はまだ一般的ではなく、「フリーターは好きでやってる」という認識が当たり前だった時代だ。
そんな時、たまたま参加したメーデー関係の集会で語られていたのが、非正規雇用が財界の要請によって増やされたことや、それを「自己責任」としてきた政治の無策、また市場原理主義の中でどうやって人が病まされていくかや、当時は「発見」されていなかった「ネットカフェ難民」などについて。
「これはなんとかしなければ!」と何かに覚醒し、集会の後に予定されていたデモにその足で参加。すると200人ほどが歩き出した途端、「生きさせろ!」「月収12万じゃ生きてけないぞ!」「結婚も子育ても考えられないぞ!」と叫び始め、ガン! と頭を殴られたような衝撃を受けた。その日から「活動家」を名乗って反貧困活動を始めたのだが、強調したいのは、当時この国では「貧困」という言葉は死語だったこと。ネットで「貧困」と検索しても、出てくるのはアフリカなど遠い国の貧困か、国内のことであれば「政治の貧困」といった文脈でしか使われないものだった。
そんな「過去のもの」だった貧困が、21世紀にじわじわと蘇りつつあったことに気づいたのがこの日だったのだ。
そうして私はその日から猛烈に取材、執筆、活動、発信を開始。それらによってこの国の貧困を知らしめる役割を一定果たしたとは思っている。ただ、知らしめただけでまったく解決されていないので今も活動を続けているというわけだ。
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20年前、このような経緯で突然「活動家デビュー」したわけだが、そこから数年、何度もデモを「主催」する一員となってきた。
主催したのは「生きさせろ」系のデモ。プレカリアート(不安定なプロレタリアートという意味の造語)運動ともフリーター運動ともロスジェネ運動とも言われたその手のデモは、自己責任という言葉によって自分を責めていた不安定層――当時の20〜30代が中心――の一部に熱烈に支持され、08年のメーデーにはなんの動員もなしで1000人以上が参加。
同時期、全国各地で同様のプレカリアートメーデーが開催されるようになり、08年、私は札幌や福岡などのメーデーを回る「全国ツアー」を開催している。振り返ればこの時期、各地で活動を始めた人々の中には「ダメ」と「メーデー」をかけた「ダメーデー」を開催する人や、デモを「路上徘徊」と名づける人など言語センス抜群の人が多かったのだが今は何をしているだろう? それだけでなく、女装した男性が「武装より女装」というプラカードを掲げていたこともあった。
ちなみにこの時期私が関わっていたデモは、イラク反戦デモの流れを汲んだサウンドデモ。トラックの荷台に機材を積み、DJが音楽をかけてみんなが踊るという祝祭的なもので、「路上パーティー」とも呼ばれていた。
翌09年には韓国ツアーも敢行した。前年、日本と同様、非正規雇用が広がる韓国を取材し、そこからつながった人たちとともに日韓プレカリアートメーデーを開催したのだ。私が韓国に行くだけでなく、韓国からも何人かを招待し、両国でデモをした。
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そんなこんなをしているうちに11年3月11日、東日本大震災(3.11)が起き、原発が爆発。以降、この国には燎原の火のように「脱原発デモ」が広がっていく。
その起爆剤となったのが、震災から1カ月後に東京・高円寺で開催された「原発やめろデモ!!!!!」。主催したのは高円寺で「家賃をタダにしろ一揆」など独特のサウンドデモをしていた「素人の乱」という貧乏人集団(当時の30代が中心)。サウンドデモのノウハウを持っていた彼らが脱原発デモを企画したところ、なんと1万5000人が集結。これを機に全国に脱原発デモが広がり、阪神・淡路大震災があった1995年が「ボランティア元年」と言われたことにちなんで、2011年は「市民デモ元年」と言われたりした。「原発がメルトダウンして民主主義が再稼働した」。当時、そんな言葉がちょっと流行ったりもした。
その流れを汲むデモは12年6月、一つのピークを迎える。原発再稼働に反対する数万人が毎週金曜日、官邸前に集まり「再稼働反対」を訴えるようになったのだ。この動きはチュニジアの「ジャスミン革命」にちなんだのか「紫陽花革命」と呼ばれるようになり、アクションを主催する首都圏反原発連合のメンバーは12年8月、当時の野田佳彦首相と面会し原発ゼロを強く求めている。