第13回 日本人の「規準」はどこにあるのか?——福田恆存と保守思想
浜崎洋介(文芸批評家)
Ⅰ「戦後」における保守思想の困難について
前回、小林秀雄の「批評」(クライシス—クリティーク)を通じて、己の内に「伝統」を見出すまでの道行きを確認し、その上で、小林秀雄における「批評」の作法を、反省以前の〈直観=純粋経験〉(西田幾多郎)が結ぶ他者とのカップリングにおいて、己の〈偶然性=運命〉(九鬼周造)を引き受けようとする日本人の倫理(エートス)として解説しておきました。要するに、「文明開化の論理」(保田與重郎)——自己を忘却した西欧化——の果てで自己喪失を病んでいた近代日本人が、ギリギリの処で見出した自分の「生き方」、それが、小林秀雄の批評文学だったということです。
しかし、小林秀雄が見出した「生き方」としての批評は、その後に起こった大東亜戦争の動乱と、その敗戦ショックによって再び見失われてしまうことになります。
そのときの日本人の呆然自失ぶりについては様々な証言が残されていますが、その一例として、ここでは小林秀雄や日本浪漫派の言葉に親しんでいた純粋戦中世代=吉本隆明の言葉を紹介しておきましょう(吉本の同世代には三島由紀夫や橋川文三がいます)。
「戦争で疲労し、うちのめされた日本の大衆は、支配層の敗残を眼のあたりにし、食うに食物がなく、家もなくなった状態で、何をするだろうか? 暴動によって支配層をうちのめして、みずからの力で立つだろうか?
あるいは天皇、支配層の『終戦』声明を尻目に、徹底的な抗戦を散発的に、ゲリラ的にすすめることによって、『終戦』を『敗戦』にまで転化するだろうか?
しかし、日本の大衆はこのいずれのみちもえらばず、まったく意外な(ほんとうは意外でもなんでもないかもしれぬが)道をたどったのである。大衆は天皇の『終戦』宣言をうなだれて、あるいは嬉しそうにきき、兵士たちは、米軍から無抵抗に武装を解除されて、三三五五、あるいは集団で、あれはてた郷土へかえっていった。よほどふて腐れたものでないかぎりは、背中にありったけの軍食糧や衣料をつめこんだ荷作りをかついで!」「丸山眞男論」1963年、『柳田国男論・丸山真男論』ちくま学芸文庫
ここで言われている「暴動によって支配層をうちのめして、みずからの力で立つだろうか?」というのは、もちろんプロレタリアートの一斉蜂起による共産革命を意味しており、また「徹底的な抗戦」を唱えて「『終戦』を『敗戦』にまで転化するだろうか?」というのは、皇国イデオロギーに殉じて本土決戦を戦い抜くことを意味しています。しかし、日本人は、そのどちらの選択肢も採ることはありませんでした。吉本隆明の言葉を借りれば、「大衆は怒るかわりに、すべてはおためごかしではないか、という皮肉と支配者拒否の様子をかいまみせ」ただけだったのです。あるいは、坂口安吾の「堕落論」(1946年)の言葉を借りれば、「生という奇怪な力にただ茫然たるばかり」だったのです。
しかし、このイデオロギーが消え去った「荒地」の現実にこそ、戦後の保守思想における、戦前以上の困難が孕まれていたのかもしれません。
明治維新によって天皇のカリスマ性が強調されたこと自体、伝統支配の脆弱性を埋め合わせるための苦肉の策だったわけですが、その苦肉の策(国体思想)そのものが崩壊してしまったという経験——一種の「革命」にも似た切断の経験——、それが大東亜戦争における敗戦の意味でした。となれば、私たちにとって、もはや自明な過去、頼るべき伝統はどこにも存在しないということにもなりかねません。
なるほど、坂口安吾が「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と言う通り、その堕落した現実を引き受けることによってのみ、そこから「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだす」こともあり得るのかもしれません(「堕落論」)。あるいは、吉本隆明が言うように、この味も素っ気もない「大衆の『無為』と『不信』の様式」——「大衆の原像」——と向き合うことによって初めて、私たちは、私たちの「自立」を立ち上げることができたのかもしれません。
しかし、敗戦後の混乱は、日本人に、眼の前の現実を見つめ、それを引き受けるだけの余裕と落ち着きを許しませんでした。GHQによる五大改革指令——①婦人参政権と女性解放、➁労働組合結成の奨励、③自由主義教育の実施、④警察司法改革(秘密警察の廃止)、⑤経済機構の民主化(財閥解体)——を含め、その他、極東軍事裁判の実施、軍国主義を推進した軍人と教職員の公職追放、神道指令による国家神道の解体、皇室財産の凍結、軍人恩給の廃止、プレスコードの発令、日本国憲法発布などの改革・変革に面した日本人は、かつての国体思想を失ってしまった己の不安とその空虚を、今度は、アメリカ製の「戦後民主主義」と「平和主義」によって埋め合わせるしかなかったのです。
GHQの要人と日本の学者が討議する様子(写真:近現代PL/アフロ)
実際、進歩派の代表として、戦後に「自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」(『日本の思想』1961年、傍点は原文)と書いていた丸山眞男は、それゆえに「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」(『現代政治の思想と行動』増補版への後記、1964年)と書くことになるでしょう。要するに、その時々の「なりゆき」にズルズルベッタリに引き摺られるだけで、何らの「座標軸」も持たなかった過去の日本人を諦めて、それが「虚妄」なのだとしても、未だ見ぬ「歴史」の可能性(進歩)を示す「戦後民主主義」に賭けること、それこそが、新生日本に打ち立てるべき「規準」ではないのかと言うのです。
しかし、日本という現実は、丸山の言葉だけを例外として扱ってはくれませんでした。丸山が賭けた「戦後民主主義」もまた戦後の流行思想として消費され、蓄積されることなく拡散し、「なりゆき」のなかで次第に「座標軸」を見失っていったのです【註1】 。実際、定年を待たずに57歳という若さで東京大学を早期退職した丸山眞男は、ジャーナリズムでの「戦後民主主義」の喧伝から身を引き、その反対に、日本的「なりゆき」の研究として「歴史意識の『古層』」(1972年)を書き上げることになるのでした——この論考については、保守思想入門—第10回「『日本人』とは何か」で触れています——。
では、本当に、日本人には守るべき「規準」は存在しないのでしょうか? ここに、戦後保守思想の困難な問いが、かたちづくられることになります。