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チベット問題はこうして始まった

ダライ・ラマとチベット人の「抵抗の歴史」

石濱裕美子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)

 2008年3月、中国チベット自治区のラサで発生し、各地に飛び火したチベット人の「蜂起」は、北京オリンピックを直前に控えた中国と世界を驚かせた。チベット人は、何を求めているのか。彼らにとって、ダライ・ラマとは何者なのか。答えは歴史のなかにある。

ダライ・ラマは「観音菩薩の化身」

 チベットの年代記には、太古の昔チベットに観音菩薩が出現し「チベットの命あるものをすべて覚りに導こう」と誓い、以来、王や高僧の姿に化身してチベットを導いてきたという神話が記されている。17世紀にチベットの最高権威者の座についたダライ・ラマ5世も観音の化身と崇められ、その宮殿も「観音の聖地」を意味するポタラと呼ばれた。つまり、チベット人にとって、チベットとは有史以来観音の化身に導かれる国なのである。チベット仏教は13世紀以後モンゴル人に、18世紀には満洲人に浸透し、両民族の崇拝を受けて繁栄した。満洲人が1643年に中国を征服して建国した清朝においては、とくにそれが著しく、とくに最盛期の皇帝乾隆帝(1711~1799)は熱烈にチベット仏教を信仰し、チベット僧を供養し、チベット寺を建て、外敵からダライ・ラマ政権を護るために様々な手を尽くした。
 現在に続くチベット人と中国政府の対立は、新中国の成立後間もない1950年の10月に、中国政府が東チベットに人民解放軍を送り込み、翌年にチベットを中国に併合した時点で始まる。中国軍は、最初は「チベット人を西洋の帝国主義から解放するため」、後には「ダライ・ラマの君臨する封建社会から解放するため」とその進軍の理由を述べたが、当時のチベットには数人の西欧人が滞在するのみで、また、大多数のチベット人は観音菩薩の化身であるダライ・ラマを崇めていたことから、チベット人の目に、中国軍は侵略軍としか映らなかった。チベット各地で中国軍に抵抗するゲリラ活動が始まり、中国軍はこれに対抗して、僧院を反革命勢力の根城として砲撃して破壊し、僧侶や貴族を労働改造所に送り込んだ。

ダライ・ラマの亡命

 59年3月、ダライ・ラマ14世は、中国軍営から護衛なしで出頭するようにとの「招待」をうけた。ラサ市民はこの「招待」を、ダライ・ラマを北京に連行するための口実であると考え、ダライ・ラマの滞在するノルブリンカ宮を取り囲んで封鎖した。ダライ・ラマとの接触を断たれた中国軍は日に日に殺気だち、市民に発砲すると通告してきたため、ダライ・ラマはチベット人と中国軍との衝突を回避すべく、インドへの亡命を決意する。ダライ・ラマを護るためにチベット人が蜂起したこの3月10日は、後にチベット亡命政府によって「チベット人蜂起記念日」に制定され、例年、中国のチベット支配に抗議するデモが行われるようになった。2008年の騒乱も、この3月10日のデモを当局が軍隊によって制圧したことが契機となって起きた。
 1959年にダライ・ラマがチベットを離れると、多くのチベット人がこれにしたがってヒマラヤを越えて亡命した。ダライ・ラマの去った後のチベットは、名実ともに中国政府の支配下に入り、徹底したチベット文化の破壊が始まった。しかし、この殺戮(さつりく)と破壊の時代にあっても、ダライ・ラマ14世は一貫して「漢人(中国人の9割以上を占める漢民族のこと)を恨んではならない」「あなたたちの敵は漢人ではない、自らの心の中にある怒りである」と、チベット人に仏教徒としてのあり方を説き、武力による抵抗運動を許さなかった(一部のチベット人はダライ・ラマの姿勢に反発し、ゲリラ活動を続けた)。その一方で、中国政府にはチベット問題を解決するための対話を求め、先進各国の首脳に対しては、チベット問題に関して中国に圧力をかけるよう求め続けた。武力によってではなく、人々の良心の力によってチベット問題を解決する道を模索し続けてきたのである。このようなダライ・ラマの高潔な姿勢に対し、西欧の知識人たちは共感し、 フリー・チベット運動が始まった。

「開発」がチベット人の不満を拡大

 ダライ・ラマは、中国政府を話し合いの席につけるべく、88年にチベットの「独立」要求を「自治」要求にまで後退させ、89年にはノーベル平和賞を受賞した。しかし、広大な版図を失うことを恐れる中国政府は実質的な対話に応じず、チベット人の不満は経済的な後進性にあるとみなし、チベットを「開発」するための巨額の資本をチベットに投下した。2006年の青蔵鉄道の開通に象徴されるこの「開発」は、結果として、大量の漢人の流入と、チベット文化の破壊をもたらし、チベット人の不満はさらに鬱積(うっせき)した。08年3月16日以後に起きた一連のチベット人の蜂起は、以上のような半世紀にわたるチベット人の積もり積もった不満が、オリンピックを契機に吹き出したものである。中国政府はダライ・ラマを暴動の主導者として非難したが、客観的にいえば、ダライ・ラマは暴動をくいとめてきた平和の人であり、暴動の原因は、チベット文化を尊重せず開発を強行してきた中国政府の姿勢にある。
 中国政府は、今回の蜂起を鎮圧するために多くのチベット人を殺害・拘束し、僧院内においてダライ・ラマの写真を踏み絵させるなどの文化大革命期のような政策を行っている。このような強行策はチベット人の不満を高め、中国の国際評価を落とすだけで何も生み出すことはない。漢人とチベット人の平和共存を実現させる唯一の道は、中国政府がこのような政策を改め、ダライ・ラマと実質的な対話を行い、過去の皇帝たちにならいチベットの精神文化を理解し尊重することにあろう。

著者情報

早稲田大学教育・総合科学学術院教授

石濱裕美子

いしはま ゆみこ

文学博士。早稲田大学大学院博士課程修了。同大学教育学部
専任講師、准教授を経て現職。編著書に『チベット仏教世界の歴史的研究』『チベットを知るための50章』『図説 チベット歴史紀行』、訳書に『聖ツォンカパ伝』『ダライラマの仏教入門』『ダライラマの密教入門』など。

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