「ノー・リーズン」の土地で――パレスチナ医療支援に参加して
香山リカ(医師)
イスラエル側のターミナルに着くと、また行列だった。もう「これがあたりまえ」という気持ちになっており、疑問すら感じない。荷物検査を受けて入国審査に進む。
私たちのすぐ前に並んでいた若い白人女性は、係官と長い時間、話していた。やがて彼女は戻ってきて待合室の椅子に座り込んだ。入国を認められなかったようだった。
いよいよ私たちの番になった。
緊張したが、拍子抜けするほど質問は簡単だった。「友人どうしなのか」「観光か」「どこへ行くのか。テルアビブ?」。それらに短く答えると、係官はほほ笑みさえ浮かべた。
ただ、今回は単に幸運なだけだったといえる。2024年は、奉仕団のメンバーふたりがテルアビブの空港で入国を拒否された。「医師だ」と言ってもこれまでのパレスチナの入域記録を示されて、「どうしてパレスチナでだけ? イスラエルで医療活動はしないの?」などと何時間にもわたって別室で質問が続き、結局、「日本に戻って。今後5年間はイスラエルに入国禁止」と言いわたされたのだ。
私たちのすぐ前に並んでいた若い白人女性は、係官と長い時間、話していた。やがて彼女は戻ってきて待合室の椅子に座り込んだ。入国を認められなかったようだった。
いよいよ私たちの番になった。
緊張したが、拍子抜けするほど質問は簡単だった。「友人どうしなのか」「観光か」「どこへ行くのか。テルアビブ?」。それらに短く答えると、係官はほほ笑みさえ浮かべた。
ただ、今回は単に幸運なだけだったといえる。2024年は、奉仕団のメンバーふたりがテルアビブの空港で入国を拒否された。「医師だ」と言ってもこれまでのパレスチナの入域記録を示されて、「どうしてパレスチナでだけ? イスラエルで医療活動はしないの?」などと何時間にもわたって別室で質問が続き、結局、「日本に戻って。今後5年間はイスラエルに入国禁止」と言いわたされたのだ。
アンマンからエルサレムまでは、直線距離なら70キロほどにすぎない。それに6時間半以上かかった。
しかし、時間がかかったこと、それじたいよりもつらかったのは、先ほども述べたように自分がいまどういう状況なのかもわからず、それを尋ねる権利さえないということだった。これは、イスラエル入国の後、パレスチナ人居住区で医療活動をする間もずっと続いた。
日本でなら、列が何時間も動かなければ「どうして止まっているのですか」と尋ねるだろう。「いったいいつまで待たせるんだ」とクレームをつける人もいるはずだ。
ここではそんなことはできない。それは私がヘブライ語、アラビア語を話せないからではない。言葉ができる人も誰もそんなことはしていない。
ただ待つ。言われたらパスポートを出す。荷物を開けろと言われれば開ける。窓のカーテンを閉めろと言われれば閉める。自分で決められることは何もないのだ。
しかし、時間がかかったこと、それじたいよりもつらかったのは、先ほども述べたように自分がいまどういう状況なのかもわからず、それを尋ねる権利さえないということだった。これは、イスラエル入国の後、パレスチナ人居住区で医療活動をする間もずっと続いた。
日本でなら、列が何時間も動かなければ「どうして止まっているのですか」と尋ねるだろう。「いったいいつまで待たせるんだ」とクレームをつける人もいるはずだ。
ここではそんなことはできない。それは私がヘブライ語、アラビア語を話せないからではない。言葉ができる人も誰もそんなことはしていない。
ただ待つ。言われたらパスポートを出す。荷物を開けろと言われれば開ける。窓のカーテンを閉めろと言われれば閉める。自分で決められることは何もないのだ。
◆ ◆ ◆
東エルサレムに入ってからも、その感覚は消えなかった。
滞在期間に活動拠点にしたのが、東エルサレム北部にあるシュファット難民キャンプだった。ここは、エルサレム市域にある唯一のパレスチナ難民キャンプだ。
この難民キャンプは、1965年、エルサレム旧市街の劣悪な環境に暮らしていたパレスチナ難民約500世帯を移住させるため、UNRWAによって設置されたものだ。面積はわずか0.203平方キロメートル。UNRWAに登録された居住者は1万6000人となっているが、実際にはさらに多く「世界一、人口密度が高い地域」ともいわれる。1967年以降、イスラエルが設定したエルサレム市域に組み込まれている。市域とはいえ、難民キャンプからエルサレム中心部に移動する住民は検問所を通らなければならない。住民の中にはキャンプ外で働いている人も多く、朝晩は自動車が長蛇の列をつくるそうだ。
高低のある狭い地域の中にアパートがひしめく。継ぎ足しでどんどん上に伸びていくため、途中から色が変わっている建物もある。一台が通過するのがやっとという狭さの道路を車が無理やりすれ違おうとするので、すべての道に車があふれ、数メートル進むにもおそろしいほどの時間がかかる。
滞在期間に活動拠点にしたのが、東エルサレム北部にあるシュファット難民キャンプだった。ここは、エルサレム市域にある唯一のパレスチナ難民キャンプだ。
この難民キャンプは、1965年、エルサレム旧市街の劣悪な環境に暮らしていたパレスチナ難民約500世帯を移住させるため、UNRWAによって設置されたものだ。面積はわずか0.203平方キロメートル。UNRWAに登録された居住者は1万6000人となっているが、実際にはさらに多く「世界一、人口密度が高い地域」ともいわれる。1967年以降、イスラエルが設定したエルサレム市域に組み込まれている。市域とはいえ、難民キャンプからエルサレム中心部に移動する住民は検問所を通らなければならない。住民の中にはキャンプ外で働いている人も多く、朝晩は自動車が長蛇の列をつくるそうだ。
高低のある狭い地域の中にアパートがひしめく。継ぎ足しでどんどん上に伸びていくため、途中から色が変わっている建物もある。一台が通過するのがやっとという狭さの道路を車が無理やりすれ違おうとするので、すべての道に車があふれ、数メートル進むにもおそろしいほどの時間がかかる。

シュファット難民キャンプの目抜き通り。車がすれ違うのもやっとの道幅
(プライバシー保護のため、写真の一部を加工しています)
同キャンプ出身で医師となり、現在は同キャンプの「エルサレム慈善協会」の理事長を務めるサリーム・アナティ医師が案内しながら現状を説明してくれた。
「2025年5月、イスラエル当局がキャンプ内のUNRWAが設立した学校に入り、児童・生徒を退去させました。その後、学校は再開されましたが、規模は縮小され、イスラエル側の管理・運営に移りました。教育カリキュラムが、イスラエルが提供するものに変わったのです」
「ほらここ」と示された建物には、まだ「UNRWA SCHOOL」という看板が掲げられている。「え、まだUNRWAがやっているのでは」と言おうと思ったが、続けて指差された先を見ると壁に無数の穴が開いている。「イスラエル当局が来たときに撃ち込まれたのです」と言いながら目を伏せるサリーム医師の言葉に、自分の愚問は呑み込まざるをえなかった。
「10年後には、ここに住む子どもたちも『イスラエルは偉大だ』と言い出すかもしれませんね。そういう教育を受けているのですから」
学校のそばにある建物はUNRWAの診療所だったと説明されたが、そこにはすでに看板もなかった。長年、難民の教育と医療を担ってきた「国連の場所」が、目の前で別のものへ変わりつつあるように見えた。
◆ ◆ ◆
難民キャンプにある慈善協会の建物の部屋を借りて、臨時の医療相談会が行われた。
猫塚団長は整形外科領域、私は主に女性の内科領域、メンタルヘルス領域の相談を担当した。協会でカウンセリングを担当している女性が、「問題は複合的です」と話してくれた。
猫塚団長は整形外科領域、私は主に女性の内科領域、メンタルヘルス領域の相談を担当した。協会でカウンセリングを担当している女性が、「問題は複合的です」と話してくれた。
「女性の場合、難民キャンプでの不自由な生活に加え、家庭内での家事や育児の負担もストレスになっています。イスラエルの侵攻でこの難民キャンプも安全な場ではなくなりつつあり、将来への不安から家庭内暴力やドラッグ依存に走る男性の犠牲になるのも女性たちです」

現地の状況を教えてくれる言語療法士の女性
(プライバシー保護のため、写真の一部を加工しています)
私が話した50代の女性は、家庭内で唯一のよりどころであった娘の結婚が決まったことで情緒が不安定になり、身体的にもさまざまな症状が出ていた。慈善協会は医療機関ではなく薬の処方はできないので、話に耳を傾け、呼吸法などいくつかのリラックス法を伝えることしかできない。
最初の日は、日本で勤務しているへき地診療所で女性たちにするような質問を投げかけた。
最初の日は、日本で勤務しているへき地診療所で女性たちにするような質問を投げかけた。
「少しでも気晴らしの時間はありますか。なにか趣味などお持ちですか」
ほとんどの人が「ないです」と答えた。「自分のために時間を使うなんて考えたこともない」と言った人もいた。
サリーム医師が教えてくれた。
サリーム医師が教えてくれた。
「つい先日も難民キャンプにイスラエル兵士が来て、ただたむろしていただけの少年たちに向かって発砲したんです。少年はキャンプ外の病院に運ばれていきました」
女性たちは、そんなところで子育てをしているのだ。さらにこの生活じたい、いつまで続けられるのか、突然、立ち退きを命ぜられることはないのかもわからない。いずれにしても、狭さや不便さに目をつぶってキャンプにいさえすれば安全ということではないのだ。私は、気晴らしや趣味に関する質問をしたことを恥じた。
女性たちだけではない。ときどき整形外科の診察室から「いいですか」と呼ばれる。かなり前にイスラエル兵からの発砲で顔面を負傷した、という男性がいた。創部の痛みに加えて食べものの味がわからず、何に対しても興味がわかなくなったという。
女性たちだけではない。ときどき整形外科の診察室から「いいですか」と呼ばれる。かなり前にイスラエル兵からの発砲で顔面を負傷した、という男性がいた。創部の痛みに加えて食べものの味がわからず、何に対しても興味がわかなくなったという。
「あのときからすべてが変わってしまったんだ」
男性は眉間にしわを寄せてつぶやいた。ここでも話を聞くことしかできない。最後に「来年も必ず来ます。またここで会いましょう」と言うと、ようやくかすかなほほ笑みを浮かべ、握手をしてくれた。
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著者情報
医師
香山リカ
かやま りか
1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。