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社会問題

皆が声を上げられる社会は実現するのか?

二次被害も含めたセクハラ被害をなくすためにできること

望月衣塑子(東京新聞社会部記者)

(構成・文/村山加津枝)

 先ほど、社内でセクハラを受けたことはないと言いましたが、私の場合は、若い頃、千葉や横浜のサツ(警察)回りなどもしていて、外部からのセクハラというのはありました。おそらく支局時代にセクハラ・パワハラの洗礼を受けるというのは、若手の新聞記者は男女問わず、皆経験することになるのではないでしょうか。
 私の場合は、千葉の方はまだのどかな感じでしたが、横浜では、赴任早々、警察幹部に「助手席で話そう」と言われて車に乗り込んだら、いきなり抱きつかれたのです。すぐに知人に相談したら、「相手は警察内で処分されるかもしれないけど、警察からの印象は悪くなり、取材がやりづらくなるかもしれない」と言われました。すっごく悩んで、結局、告発するのをやめました。
 ただし、自分の中でどうしても納得がいかなかったので、その幹部のいる警察署へ行き、人の見ていない所で、はっきりと抗議しました。そうしたら「そんなに怒ってるとは思ってなかった」と平謝りされ、「ああ、この人、自覚がなかったのか」と納得し、相手が謝ったことで許すことができました。
 その後も何度か同じようなセクハラには遭いましたが、取材に慣れていくにつれ、それを「受け流してきた」という面がありました。当時は、「取材のためだから仕方ないか」と思っていたわけですが、自分より若い世代の記者たちが、今、ひどい目に遭っているのを目の当たりにしたり、後輩たちから相談を受けたりすると、10年以上前に、私自身がもっときちんと声を上げていれば、後輩たちが苦しむことはなかっただろうと反省させられます。
 これはきっと、記者という立場の女性だけではなく、他の業界でも、仕事のためだからとやり過ごし、我慢してきた人たちも同じ思いだと思います。私のように市井の声を拾える、人に伝えられる仕事に就いている者は、もっともっと声を上げていかないといけないと思います。
 残念なのは、せっかく勇気を出して声を上げた女性を批判したり中傷したりする人の中に、同性の女性がいることです。自分たちは「若い頃、こうだった」と言うのならまだしも、「私は我慢したんだから、あなたも我慢しなさい」ではなかなか社会の意識が変わっていかないと思います。電車内でのベビーカーの使用について論争があったときも、高齢の女性たちが「自分たちはちゃんとおんぶしていた。ベビーカーは車内で使うな」という批判があったと聞きました。もしずっと我慢していたのなら、我慢しなくて済む社会、より子どもを育てやすい社会の方がいいですよね。それがセクハラに関連することなら、我慢しなくて済む社会の方がいいに決まっています。

声を上げられる力を

 セクハラに関して声を上げるには、教育も大事かなと思います。
 私には娘がいますが、彼女にはきちんと自分の考えを表現できる人間になってほしいです。先生の言うことに従って、黒板に書いたことをただ書き写して、丸暗記する。私の子ども時代は、そんな教育が当たり前でした。でも、それだけではクリエイティビティは育たないし、新しい価値観や創造力も生まれにくい。教師やお上の言うことが当たり前だと思わされ、声を上げられない人間になってしまいそうです。
 アメリカでは、今年3月、高校生が中心となった銃規制の強化を訴えるデモに、首都ワシントンだけで約80万人、全米では約100万人が集まったといいます。海外のニュース映像だったかと思いますが、トランプを批評する4、5歳の女の子の映像を見たときには思わず笑ってしまいました。そうしたことができるのは、常に親や教師たちが、相手がどんなに小さな子どもであっても政治のことを語り合い、ディスカッションすることが身についているからでしょう。自分の考えや思いを伝えるために声を上げる、その力がはぐくまれているのではないかと思いました。
 そのアメリカでさえ、#MeToo運動以前には、なかなか声を上げられなかったことを考えると、セクハラの問題はなかなか手強いとも言えますが。

オヤジ文化、体育会系のノリに「NO」

 今一度自分を振り返ってみると、特捜部を担当していた頃、元特捜部検事の家にお正月集まるときは女性記者たちがみんな着物を着るということが慣習化していて、私も着物で行きました。女性であることを取材で利用したことがまったくないかと聞かれたら、女性だから取材のための飲みに付き合ってもらえたことも多かったと思いますし、否定はできません。
 女だから、男だから、と性差を声高に叫び過ぎることも、それはそれでギスギスした社会になってしまう可能性もあります。ただ、これだけは言えるのが、当事者が嫌がっているなら、それだけでセクハラだということ。これを理解できていないことが、セクハラをしている側の自覚のなさにつながっているのだと思います。
 これには、いわゆるオヤジ文化とか体育会系のノリ(!?)というものも影響している気もします。例えば男性記者の場合は、セクハラよりもパワハラが問題で、取材相手の言いなりに芸をするなど、「情報を取るために、ここまでするの?」という情景を見ることも少なくありません。今やスポーツ界でもこれまでは当然と言われてきた体育会系のノリが問題になっているのですから、女性に限らず男性も嫌なことにははっきり「NO」と言いましょうと言いたい。取材する側が、はっきりと声を出すことで、取材される側の意識も変わっていくことが必要な時代になったのではないでしょうか。
 福田氏のセクハラ問題を受けて、政府は省庁幹部へのセクハラ研修の義務化など緊急対策を講じるようで、野田聖子男女共同参画大臣が取りまとめをしていて、会見をしました。しかし、その後も耳を疑うような政治家の発言が引きも切らずで、もっと厳しく対処してほしいし、研修を受けなければいけない人がたくさんいます。さらには、「セクハラ罪という罪はない」と麻生大臣が言いましたが、日本にセクハラ罪がないことは、国連からこれまで問題視されてきました。今回の#MeTooの動きを契機に、何より政府は、日本にもセクハラやパワハラへの罰則を作っていく道を模索していくべきです。

ジワリジワリと変えていく

 これまでは、女性の問題と捉えがちだったセクハラ問題ですが、加害者が男性であれば当然男性の問題でもありますし、男性が被害者になることも、女性が加害者になることだってあるわけです。
 自分の周囲を見回すと、男性で麻生大臣のような考えの持ち主はほとんどいません。WiMNの賛助会員には男性もいます。これからはもっと理解のある男性が増えていくだろうし、セクハラ問題を「女性」対「男性」という構図で考えるのはやめて、双方が生きやすい、働きやすい社会を目指して、共に変えていけるようになればいいですね。
 身内から受ける被害が多いなら、第三者的な相談窓口も必要になってくると思います。何かトラブったときなど、社内だけで何とかしようとするより、客観的に見て、判断できる弁護士や外部の専門家に相談すると、問題が整理されるし、人間関係を忖度して悩んだりせず、淡々と事が運ぶことも多いと聞きます。
 いかにも「闘うぞ!」というのとはまた違った形、もっと等身大というか、それぞれが無理なくできる範囲での闘い方、応援の仕方がある気もします。セクハラをしていることに無自覚な人には、「NO」をはっきり言うことで、私の体験のように相手に変化が訪れるかもしれません。
 今後も一足飛びにこの問題が解決するとは思えません。それでも、これまで声を上げてきた多くの勇気ある人たちのためにも、それに続く人が出てくることが肝心です。そして声を上げられる環境があって、声を上げた被害者を守るしくみやサポートするしくみをきちんと作ることも重要です。
 例えば、LGBTをめぐる社会環境は少しずつ変化が出ており、今やカミングアウトする人も増えました。またお茶の水女子大学などが、戸籍上男性であってもトランスジェンダーの学生の入学を受け入れると発表するなど、周囲の対応も変わりました。同じように、セクハラ問題もあきらめることなく、ジワリジワリと変わっていけばいい、変えていけたらいいなと考えます。

著者情報

東京新聞社会部記者

望月衣塑子

もちづき いそこ

1975年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、東京・中日新聞に入社。社会部記者として千葉、埼玉など各県警、東京地検特捜部、東京地方裁判所、東京高等裁判所などを担当。出産後、経済部に復帰。現在は社会部に戻り、武器輸出、軍学共同などを主に取材。主な著書は『武器輸出と日本企業』(2016年、角川新書)、共著は『武器輸出大国ニッポンでいいのか』(16年、あけび書房)。(2017.5)

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