盲導犬バイオバンク設立
加藤由子(動物ライター)
盲導犬に適した犬を遺伝子情報で選べたら、そして凍結保存した生殖細胞を使った人工授精が普及できたら、もっと効率的に多くの盲導犬を育成することができる――慢性的な盲導犬不足の緩和を目指したバイオバンクが、世界で初めて開設された。帯広畜産大学の鈴木宏志教授のチームと(財)北海道盲導犬協会、国立遺伝学研究所、(独)理化学研究所が共同で進めてきたプロジェクトの中で生まれた構想で、2007年4月に開設、取り組みが進められている。
盲導犬の稼働頭数は約1000頭、希望者は約8000人
現在、稼働している盲導犬は965頭(07年3月31日現在)、この「約1000頭」という数字は何年間も変わらない。毎年、130頭ほどの盲導犬が育成されているものの、引退する盲導犬も同じくらいいるからだ。一方で、盲導犬を必要としている潜在的希望者は、一説に約5000~8000人ともいわれていて、要望に応えられないでいるのが現状である(
)。
なぜ、もっと数多くの盲導犬を育成することができないのか。一番の理由は、施設にもよるが、訓練を受けた犬のうちの、約3割しか一人前の盲導犬になれないからである。盲導犬候補として生まれた犬は、パピーウォーカーなどと呼ばれる子犬の育成ボランティアに預けられ、一般家庭の中で育てられる。生後約1年程度で適性検査を受け、約50%が合格して訓練が始まるが、およそ6カ月に及ぶ基礎訓練と誘導訓練、さらに盲導犬希望者との約1カ月にわたる共同訓練を経て、晴れて盲導犬として訓練センターを「卒業」できるのは、約3割にすぎない。
不合格の理由は、警戒心の強さや不安を感じる度合いの強さが、訓練によっても取り去ることができなかったということが多い。適性検査のときには見えなかった性格が、あとから出てくるということもある。いずれにしろ、盲導犬に求められる適性のハードルは高く、育成技術の向上という課題はあるにせよ、そのハードルを越えられる犬が少ないのである。
プロジェクトの始まり
帯広畜産大学の鈴木宏志教授は、この現状を報道でたまたま知る機会があり、北海道盲導犬協会に話を聞きに行ったという。そこで盲導犬の繁殖技術の立ち遅れを知る。人やウシなどでは凍結精子による人工授精が行われているが、大型犬では技術的に難しく実用化されていないこと、子宮に精子を送り込むための機材が高価すぎて、日本では入手困難なことなどだ。
さらに、盲導犬としての訓練に入る前に、オス・メスともにほとんどが避妊手術を受けるため、優秀な盲導犬に育った時点では、もう子孫を残すことができないことが、盲導犬不足の要因の一つになっていることを聞き、「自分がやってきた研究でサポートできないだろうか」と思ったという。これがプロジェクトのきっかけである。
鈴木教授の専門は発生工学で、ネズミを使って研究を続けてきた。その成果と技術を役立てたいと思ったのだ。イギリスや北欧、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドでは15年ほど前から、凍結精子を使った盲導犬の人工授精が行われ、繁殖管理におけるデータベース化や性格遺伝子の解明なども行われている。
鈴木教授は、子宮に精子を送り込むための機材(ヒト用膀胱鏡)を導入し、北海道盲導犬協会と協力して、凍結保存精子を用いた人工授精を試みた結果、子犬を生ませることに成功。これを踏まえ04年、「優良盲導犬育成に資するための遺伝子資源の確保、保存に関する生殖工学的研究、とくに精子と胚の凍結保存技術の確立と、遺伝子バンクの設立および人工繁殖技術の確立」を目指す3年計画のプロジェクトが開始された。
盲導犬に適した性格遺伝子の解明
鈴木教授のチームは、盲導犬の訓練を受けたラブラドル・レトリーバー約200頭(合格した犬約100頭、不合格だった犬約100頭)の遺伝子解析を行い、合格率と関連するSNP(遺伝子配列の個体差)を5つ、発見した。「合格する犬に多いパターンを見つけることができれば、可能性を選んで訓練することができる。現在3割の合格率を7割にまで上げることができるのではないか」という。
今後、解析頭数を増やすことで正確度を上げるとともに、麻薬探知犬や災害救助犬の適性にも応用できると語っている。また、ラブラドル・レトリーバーに多く見られる股関節形成不全症や進行性網膜萎縮などの、遺伝性疾患への対処としても役立てられると期待している。
また、鈴木教授は凍結した犬の卵巣を解凍してマウスに移植することにも世界で初めて成功した。卵巣の凍結と解凍が技術的に可能であることが証明されたわけである。
訓練に入る前に摘出された卵巣を凍結保存し、優れた盲導犬であることがわかったときに、その卵巣を解凍して繁殖犬に移植することで、盲導犬としての遺伝的素質の高い犬を繁殖させることができることになる。さらに最近では、受精卵の凍結保存にも成功、卵巣を摘出する前に人工授精を行うという方法を視野に入れた研究が進められている。
世界に向けたバイオバンク
07年4月に開設されたバイオバンクでは、国立遺伝子研究所が犬の遺伝子情報や家系図のデータベースを作成中、帯広畜産大学が精子や卵巣、血液、DNAの凍結保存を進めている。情報はインターネット上に公開して世界に向けての情報発信を行う。日本国内に9団体ある盲導犬協会とも連携してデータを集めたいとしている(
、
)。世界中で遺伝子情報や生殖細胞を共有できれば、盲導犬育成をはじめ、犬の研究に大きな進歩が期待できるに違いない。
北海道盲導犬協会の和田孝文所長は、「盲導犬としての資質を持ち、かつ遺伝的疾患のない犬を育成するためには外国から血を入れなくてはならないが、犬自体を運ぶことには困難が多い。冷凍した組織を導入できれば幅は広がる。世界に類のない試みに大いに期待している」と語っている。
著者情報
動物ライター
加藤由子
かとう よしこ
動物ライター、エッセイスト。「ヒトと動物の関係学会」監事。1949年生まれ。日本女子大学卒。大学では生物学(動物行動学)を専攻。移動動物園などを経てフリーライターになる。動物、特にネコの生態や行動学に精通し、ネコに関する書籍などを多数執筆している。ネコ関連の著書に、『雨の日のネコはとことん眠い』『ぬき足、さし足、にゃんこ足』(共にPHP研究所)、『ネコを長生きさせる50の秘訣』(サイエンス・アイ新書)、『猫の気持ちを聞いてごらん』(幻冬舎文庫)、『猫式生活のすゝめ』(誠文堂新光社)、『猫とさいごの日まで幸せにくらす本』(大泉書店)、『猫の気持ちは見た目で9割わかる!』(大和書房)ほか多数。