いま注目のヤンキー文化とは何か?
五十嵐太郎(建築評論家/東北大学教授)
いま、映画のヒットをきっかけに“ヤンキー”というキーワードが注目されている。長引く経済不況の下、新たな消費者や消費行動を指す言葉として機能し始め、地元や家族、友達を大事にする、そのスピリッツが熱く語られ始めた。
大反響のヤンキー文化論
2009年の春、筆者は編著者となって、「ヤンキー文化論序説」(河出書房新社)を刊行した。その動機は以下の通りである。もともと研究者とオタクの親和性が高いために、オタクの文化研究は急激に増えた。しかし、なぜか本格的な“ヤンキー文化論”は登場する気配がない。そこで、暴走、ファッション、デザイン、アート、漫画、音楽などの諸分野を横断的に扱う本を企画したのである。
しかし、ある程度は予想していたとはいえ、正直言ってびっくりするくらい反響が大きい。7月からリブロ渋谷店において、ヤンキーブックフェアも開催されている。そして、とくにマーケティングに関するメディア界の反応が大きい。例えば「日経MJ(流通新聞)」4月10日、5月15日、6月10日における石鍋仁美の記事では、身の丈にあった生活を重視し、理屈より五感や便利さでモノを選ぶ“ヤンキー経済”の台頭を指摘し、「ヤンキー文化論序説」のオビに書かれたコピー「オタク論には、もう飽きた!」を「流行発信源の交代を象徴するキャッチフレーズだ」としている。「SPA!」6月23日号も“ヤンキー魂のスゴい経済効果”という特集を組んだ。
社会学者の難波功士による「ヤンキー進化論」(光文社)が、「ヤンキー文化論序説」の直後に刊行されたことも、注目を集める一因になった。こちらはフィールドワークというよりも、文献をベースにヤンキー文化の多様な展開を追跡している。
背景にはファンタジー・ヤンキー映画
が、むしろ今春からヤンキー系の映画がたて続けにヒットしていることが大きい。「ドロップ」や「クローズZERO」のシリーズ、そして「ルーキーズ 卒業」「ごくせん」。これらの作品は不良だけが見るのではない。普通の若者や、10~20代の女性も映画館を訪れている。イケメン俳優をそろえ、草食系ではない男子の世界が展開されているからだろう。筆者が興味深いと感じたのは、現実とのズレである。郊外におけるヤンキーの姿をリアルに描くならば、富田克也監督(相沢虎之助共同脚本)の映画「国道20号線」が圧倒的にすぐれているはずだ。しかし、実際にウケているのは、ファンタジーとしてのヤンキー映画である。例えば映画「ドロップ」の主人公、信濃川ヒロシは「漫画みたいな不良にあこがれて」、不良への道に進む。つまり、メディアのなかのヤンキーを模倣しているのだ。また「クローズZERO」を見て驚いたのは、教師の姿や講義の風景がまったくないことだった。そして、あまりにも異常な量の壁の落書き。これは不良たちのユートピアというべき世界である。80年代の「ビー・バップ・ハイスクール」ならば、登場人物は、隣にいるような若者であり、日常の延長だった。しかし「クローズZERO」は、現代から見ると、純化された異世界である。そこでは男の不良だけが存在し(おそらく、紅一点の黒木メイサも不要だ)、闘いにあけくれるのだ。そう、新鮮なサバイバル・ゲームの舞台としてヤンキーの世界観が機能している。
失われつつある不良文化
いまや失われるかもしれない昭和の不良文化。過酷なグローバル資本主義経済にさらされた現在の日本では、しばらく“悪さ”をやってから卒業=就職し、家庭をつくり、地方の共同体に溶け込んでいくというモデルが通用しなくなった。逆に言えば、これまでは好景気と地方の共同体文化がヤンキーを支えていた。だから、いまの若者は暴走族にもなりにくい。働けたとしても、手に職をつけるような仕事もなく、交換可能な派遣ばかり。これは最後の輝きなのだろうか。「朝日新聞」6月25日では、ヤンキー文化論の興隆に関して、「郷愁というものでしょうか。人は、物が消えゆく瞬間、妙にもてはやしたりする」と述べている。
かたちを変えて生き残るヤンキー的なモノ
しかし、難波功士が指摘するように、ヤンキー的なるものはかたちを変えて生き残るだろう。彼によれば、ヤンキー的な空間やイベントは日本社会に変容・拡散しつつ遍在する。そして拙著の「結婚式教会の誕生」(2007年 春文社)に触れて、Jウエディングのチャペル、住宅地の過剰なクリスマス・イルミネーション、ディズニーやサンリオのテーマパークをヤンキー的なるものの事例に挙げている。ここではヤンキーと大衆的な「かわいい」との交差が認められるだろう。
「かわいい」とリンクするヤンキー
日本のヤンキー文化は、基本的に過剰さを志向し、江戸時代の異形な姿で目立つ「かぶく」との連続性を指摘することも可能だが、ハイブリッドな要素が混ざっていることも見逃せない。例えば、一見、ヤンキーと「かわいい」は相反する。だが、映画「下妻物語」において、ヤンキーとロリータ・ファッションという異なる世界に属する二人のあいだに友情が芽生えたように、どこかで通じ合う。なめ猫、あるいはヤンキーの車や部屋に置かれたぬいぐるみ。ちぐはぐな接合を通して、ヤンキー文化にも、「かわいい」感性が忍び込む。アメリカのバイカー(バイク野郎)であるヘルス・エンジェルスは一貫した美意識をもち、間違ってもそこにキティちゃんは入らないだろう。とすれば、「かわいい」と必ずしも矛盾しないことは、日本の不良文化の特徴であるのかもしれない。ヤンキー系とされる女性誌「小悪魔ageha」も、キラキラ、デコデコの写真が満載であり、変容した「かわいい」と結びつく。ちなみに、同誌はキャバクラ嬢向けと言われながらも、売れ行きは好調であり、30万部を超すという。むしろ、大衆文化である両者にとって敵なのは、エッジのある前衛的な文化だろう。
ヤンキーなインテリア
ところで、筆者がヤンキー文化論に興味をもったきっかけは、インテリアデザイナーの森田恭通だった。実際、彼はバリバリの元ヤンである。しかも彼に仕事を連続的に依頼する固定クライアント「ちゃんとフードサービス」の社長も暴走族のリーダーだった。改造車のごとく、端部を肥大化させたり、大胆にかぶく感覚が、森田デザインの特徴である。「SAMANTHA KINGZ」表参道本店
は、カーテンの絵柄が描かれたすべて書き割りのファサードが立体的に張りだす。ハリボテを嫌う建築家にはできない。六本木の「FERIA TOKYO」
では、妖しく赤く光る巨大な額縁に入ったソファに座り、食事をする。しかも背後には「最後の晩餐」の絵がプリントされている。筆者は、こうした感覚をヤンキーバロックと命名した。

日常に潜むヤンキー・テイスト
森田にも「かわいい」を導入した作品がある。やはり、女性向けの衣服や宝飾店だ。例えば、表参道の交差点に位置する「SAMANTHA THAVASA」は、入口にレッドカーペットを敷き、光モノをこれでもかというくらい散りばめている。つまり、かわいさの記号的な要素を過剰に使い、それが悪趣味と紙一重であることを再認識させるのだ。銀座の「violet hanger」も、紫に塗られた巨大な額縁がバッグの棚になっている。表参道ヒルズのスタージュエリーでは、店名にあやかって、星のアクセサリーを天井から大量につるす。そしてアーチのパターンも展開する。ここでもモダニズムに通じる禁欲的なミニマルデザインではなく、過剰な装飾の要素として星のかたちを徹底的に使う。ヤンキー・テイストは、さまざまなスタイルと結びつき、われわれをとりまいている。
著者情報
建築評論家/東北大学教授
五十嵐太郎
いがらし たろう
1967年パリ生まれ。92年東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。著書に『過防備都市』(2004年、中公新書ラクレ)、『現代建築に関する16章』(2006年、講談社現代新書)、『新編新宗教と巨大建築』(2007年、ちくま学芸文庫)、『「結婚式教会」の誕生』(2007年、春秋社)、『ヤンキー文化論序説』(編著、2009年、河出書房新社)、『ぼくらが夢見た未来都市』(共著、2010年、PHP新書)など多数。第11回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展2008の日本館コミッショナーを務める。