自然な日本語はどこにあるの?〜言語の複数性をめぐって
栢木 「標準」とか「自然」という枠では捉えられない微妙なグラデーションの部分を描こうとしているのに、別の「標準」や「自然」が持ち出されてしまうと、元も子もないですね……。
温 「この濁点、私にとっては自然じゃない」というならわかるんです。ところが、「私の言語観、私の世界観こそがすべて」だと思っている人は、本物かどうかを自分がジャッジしてしまう。翻訳調の日本語に対して「ちょっとこれ不自然だ」というのもそうです。それならば、あなたが言う「自然」というのは何かという話になってくる。国語的なもので線を引いて、例えば南部弁と日本語を分けるのではなくて、「訛り」そのものが日本語の底層にあるという、そういう感覚を持ったほうが面白いと思います。
国語教育のなかにもあった多様性
栢木 温さんはエッセイ『「国語」から旅立って』(新曜社)で、「母語そのものの中に複数言語を作り出す」という多和田葉子さんの言葉を引いておられます。多和田さんのエッセイ『エクソフォニー――母語の外へ出る旅』(岩波現代文庫)からの引用です。それから、かつてリービ英雄さんの作品を読んだとき、簡体字や繁体字を使用していたり、漢字の横にカタカナでルビを振ることで中国語や台湾語の音を表現しているのを見て驚いたという逸話を紹介されています。「日本語って、こんなふうに書いてもいいんだ」と。僕たちが使っている言語のなかにある複数性にもっと忠実であれるような、日本語表現の幅を増やしていかなければならないのだと思います。ちなみにルビは翻訳のとき本当に便利で、字面で意味を伝えながら、ルビで原語の響きを残す、ということができます。さきほどの話にあったように、字と音をずらせるというか、音を重ねられるのです。
そういうことは、別に作家や翻訳者だけに関わる表現や技法の問題ではないと思います。だれしもが日常的に言葉を使っているときに、そうした複数性とそれこそ「自然」に向き合っているんじゃないかと思うのです。日本語では漢字にいくつもの「読み方」がありますね。訓読みと音読みがあるだけでなく、音読みにも複数のパターンがあったりします。例えば、「建てる」という漢字は、「ビルを建設する」というときは「ケン」と読みますが、「寺院を建立する」というときは「コン」と読みます。前者は「漢音」といって、中国の北方から政治や経済や法律の知識とともに伝わってきた音で、後者は「呉音」といって、中国の南方から仏教などとともに伝わってきた音です。僕たちは、そうした歴史的な背景をいちいち意識していなくても、どういう分野の話をしているかによって、音を使い分けたり、聞き分けたりしているはずなんです。
温 国語そのもの、日本語そのものが実は入り交じっているということですね。
栢木 そうです。ハイブリッドですよね。もう一つ例を挙げさせてください。日本では「国語」の授業で漢文というものも習いますね。そこで僕たちが何を読ませられるかと言えば、いわば古代や中世の中国語なわけです。もちろん、レ点とか返り点とか複雑な翻訳技法を駆使して読むわけですが。僕は学生時代、中国に留学していたことがあるのですが、あるとき、中国人の友人がなぜか唐代の詩の話をしてきたので、僕が杜甫とか李白の名前を出しますと、「おまえはそんなものまで読んでいるのか、すごいな」とたいそう褒めてくれました。褒めてくれるので、「義務教育で習った」とは言わず、そのままにしておきましたが(笑)。「国語」というもの自体、実際は「国」の枠を越えていて、多様なものが詰まっているのです。

自分の言葉を誇りに思うために
栢木 先日お会いしたときに頂いた対談記事(温又柔☓後藤正文「私たちを縛る“普通”からの解放」『The Future Times』9号)のなかで、温さんが言葉というものは「個人の人生経験そのものを反映している」、それは「個人と個人が触れ合うためにある」と語っておられたのが印象に残っています。僕自身がいま話している言葉は、僕がこれまでどういう人と付き合ってきたか、どこで暮らしてきたかということの結果です。それから、母語にせよ、外国語にせよ、どういう先生から言葉を習ったのかということが後々まで影響します。その先生の語彙とか発音の仕方などを知らず知らずのうちに継承してしまいますから。
人間はそれぞれ違う人生を歩んでいるわけですから、当然、言葉には個人単位でさまざまなバリエーションが生まれる。温さんが書かれているものは、そういう言葉の多様さや個性の重要性を実感させてくれます。そういう実感を得る機会が、国語教育のなかにもあったほうがいいのかもしれません。とくに子どもたちが、自分が話している言葉に自尊心を抱けるようになる工夫がもっと必要だと思います。
温 おっしゃるとおりです。私の場合、グロリア・アンサルドゥーアというチカーナ(メキシコ系アメリカ人)の詩と出合ったことがとても大きかった。
アンサルドゥーアは、学校では英語を習っているけれども、家庭ではメキシコ出身の家族とスペイン語を話すという環境で育った人です。親が話しているスペイン語は話せるけれども、メキシコ人からすると「正しいスペイン語じゃない」と笑われる。さらに、学校に行くと、今度は「おまえの英語は学校の英語と違って、ちょっとずれている」と言われる。とにかく自分にとってなじみ深いはずのどの言語とも距離のあった彼女は、「野生の舌を飼い馴らすには」というタイトルの詩を書くんです。アンサルドゥーアは、「自分はすべてのボーダーの上に立っている。そして、この言葉自体が私だ」とも宣言しています。
管啓次郎さんによる素晴らしい日本語訳でこの詩と出合ったときに、私は自分もまた、「正しい」日本語や「正しい」中国語を喋らなければという思い込みを脱することができました。そして、日本育ちの台湾人である自分の言葉をもっと誇ろうと、そのために小説を書こうと誓ったのです。
さらに幸運なことに、今まで話してきたように日本語自体が複雑なルーツを持つ言葉で、漢字の読みなどにしても統一性のないものを表現する文字体系を持つものだった。だから、私の場合は自分の「野生の舌」を取り戻すために日本語を駆使して自分の世界を書くことができたんですね。私はそういう意味で文学に救われたという感覚があります。
栢木 自分の言葉のなかにある「ずれ」とか「複雑さ」をコンプレックスではなく、誇りと思えるようになるきっかけ、温さんの場合は、それが文学との出会いだったわけですが、音楽にせよ、映画にせよ、そうしたきっかけになる作品をもっともっと増やしていかなければならないと思います。
温 正しくあらねば、という抑圧はどこにでもあります。「正しい」言葉が話せないというコンプレックスを手放し、むしろ訛りやずれこそが個性だと誇ることができれば、みんなずっと楽になるのではないか。その意味では、アンサルドゥーアと同じくメキシコ系アメリカ人の作家であるサンドラ・シスネロスの小説も私を勇気づけてくれました。「はじけるような話しことばの英語のなかにスペイン語がどんどん混じりこんでくる」「めちゃくちゃユニーク」な文章で綴られた『マンゴー通り、ときどきさよなら』(くぼたのぞみ訳、白水社)を読んでいると、いろんな意味で複数の文化を行き来させられながら育ったということは、決して嘆かわしいことなのではなく、むしろとても誇らしいことだと胸をはりたくなります。
私がアンサルドゥーアやシスネロスと出合ったように、言葉にはさまざまなバリエーションがあると気づけるチャンスが国語教育のプログラムや、社会のなかにももっと用意されているといいなと思います。知らずしらずのうちに、日本人にとって「よい移民」になろうとしてしまう本ばかりでなく。
著者情報
作家
温又柔
おん ゆうじゅう
1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から東京在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、『好去好来歌』で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ日本語育ち』(白水社、2016年、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社「よりみちパン!セ」、2019年)など。
移民研究者・翻訳者
栢木清吾
かやのき せいご
1979年、大阪生まれ。翻訳家、研究者。神戸大学国際文化学研究推進センター学術研究員。専門は、移民研究、イギリス(帝国)史、カルチュラル・スタディーズ。訳書にニケシュ・シュクラ(編)『よい移民―現代イギリスを生きる21人の物語』(創元社、2019年)、アーロン・S・モーア『「大東亜」を建設する―帝国日本の技術とイデオロギー』(人文書院、2019年、分担訳)など。著作としては「おもてなされている日本社会」『現代用語の基礎知識2020』(自由国民社、2019年)、「差別感情にふれる」『ふれる社会学』(北樹出版、2019年)、「グローバル化・移民・都市」『出来事から学ぶカルチュラル・スタディーズ』(ナカニシヤ出版、2017年)など。