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常識を疑え!

なぜ自称「ふつうの人」が銃を乱射するのか?

香山リカ(医師)

 2019年3月15日、ニュージーランドクライストチャーチにあるモスク(イスラム教礼拝所)で起きた銃乱射事件。子どもを含む50人ものひとびとが亡くなり、まだ多くが病院で治療中だ。
 容疑者として逮捕されたオーストラリア人の男性は、ネットに100ページ以上にも及ぶ「マニフェスト」を公開した。その中には「あなたは誰ですか?」といった質問に答える形式の“自己紹介”のパートもあるが、男性はそこで「ordinary」「regular」という単語を用いながら、「28歳のふつうの白人男性です」「私はふつうの家族出身の普通の白人男性です」と繰り返している。
 もちろん、ふつうの男性が銃で何十人ものイスラム教徒を撃つことなどないわけだから、ここだけを見た人は「なにを言ってるんだ」と理解に苦しむだろう。
 私も全文を読んだわけではないのだが、その後にはオーストラリアから旅に出かけたヨーロッパで、あらゆる場所がイスラム教徒によって「侵略されている」と感じたこと、「私たちの土地を侵略者にわたさないことを示したい」と考えて今回の犯行を思いついたことなどが記されている。

19年3月21日、モスク銃撃事件を受け、半自動小銃を禁止する方針を発表したニュージーランドのアーダーン首相(左)

 オーストラリアもニュージーランドも、もともとはアボリジニやマオリといった先住民が住んでいた土地を、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ人が“発見”し、組織的に植民を行って作られた国だ。その過程では先住民の迫害や虐殺が行われ、先住民の土地も文化も命さえもが奪われた。生き残った先住民たちも後からやってきた白人に差別され、英語圏の文化への同化を強いられたのだった。
 先住民の権利回復を求める世界的な潮流と連動してアボリジニなどの人権回復運動や土地権運動が盛んになったのは、20世紀も半ばをすぎた1960年代中頃になってからのことである。1867年から英語を学校で教える唯一の言語と定めてきたニュージーランド政府は、1987年になってようやくマオリ語を英語と並ぶ公用語として認めた。現在では小学校でマオリ語が必修となっているという。植民地時代から長い年月がたってしまったが、政府もようやく「先住民の歴史と伝統、文化を守る必要がある」と考えるようになっているのだ。
 そういった歴史を少しでも知っている人は、「イスラム教徒に土地を侵略された」という今回の容疑者の主張に対して、すぐに「いや、オーストラリアやニュージーランドを侵略したのは、イスラム教徒ではなくあなたたち白人なのだ」と反論したくなるだろう。
 しかし、おそらく誰かがそう言ったとしても、容疑者はこう答えたのではないだろうか。
「私は実際にヨーロッパを旅行して、いたるところにイスラム教徒がいるのをこの目で見た。でも、自分が住むオーストラリアで白人がアボリジニを虐殺したり土地を略奪したりしているのを見たことはない」
 もちろん、それはそうだ。植民地化が起きたのは200年も前のことであるし、シリアなどからの難民や移民が各国で増加しているのは主に今世紀の話だ。とはいえ、自分の目で見ていない過去のできごとも「史実」であり、私たちにとって重要な意味を持っているはずだ――少なくともこれまでは、「史実」は人間にとって重要な意味を持っていた。
 文芸評論家の佐々木敦氏はその著書『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』(筑摩書房、2011)の中でこう言う。

「われわれは、ある事象の背後に『歴史』と呼ばれる時間があると考えるわけですが、特にネット以後、そういった『歴史』を圧縮したり編集したりすることが、昔よりもずっとやり易くなりました。というよりも、そういう圧縮や編集が、どんどん勝手に起きてしまうようになった。(中略)むしろ時間軸を抜きにして、それを一個の『塊=マッス』として、丸ごと捉えることが可能になった。(中略)
 まず『現在』という『扉』があって、そこを開けると『塊』としての『歴史』がある。その『歴史』を大掴みに掴んでしまって、それから隙間を少しずつモザイク状に埋めていくことが、『歴史』の把握の仕方としては、今やリアルなのではないかと思うのです。」

 つまり、ある「史実」に対して、それが今からどれくらい時間的に離れた時期に起きたのか、そこに至る道のりはどうで、それの後世への影響はどうなのか、といった系譜学的な捉え方ができなくなっている。それよりももっとざっくりと、たとえば「オーストラリアを白人が植民地化した? ああ、なんとなく聞いたことはあるけど、実際に見てないし。ものすごく昔の話でしょ?」というように、「塊=マッス」としてしか掴めない。
 それでもまだ「何かあった」と掴んでいるならよいのだが、もしかすると事態は佐々木氏が前掲書を記した頃よりさらに(悪い方へ)変化しているかもしれない。それはどういうことかというと、「塊=マッス」としても捉えられない、あるいは「塊=マッス」を丸ごと書き換えてしまう、という動きが加速しているように思うのだ。
 今回の事件で言えば、先ほど容疑者に植民地化の歴史を話しても「そんなことは知らない」と一蹴されるかもしれないと書いた。そうであるならいくら言葉を尽くして、「あなたは知らないとしても、こういう資料がある」と入植や先住民迫害の歴史について説明しても、「そんな資料は本物かどうかもわからない」と拒絶されるおそれがある。
 それでは済まずに、「塊=マッス」としての歴史を丸ごと書き換えて、「ヨーロッパ人がやってきて先住民を文明化してやったんだ」「先住民たちもとても喜んだ」と理解していることも想定される。これがいわゆる歴史修正主義といわれる立場だが、彼らは実に恣意的に資料や証言をチョイスして、自分たちが「こうであってほしい」「こうであるに違いない」と思われる内容に、乱暴にも史実やその解釈を書き換えるのだ。これに私は、「願望充足型の歴史修正主義」という名前をつけたい。
 こういった認識や理解は、もちろんこれまでの歴史と向き合う態度から言えば、不誠実でかつ非科学的、非論理的でしかない。大学の学生レポートでこういった手法で何かを主張すれば、「論証になっていない」と不合格点がつくだろう。
 しかし、残念なことに最近はこのスタイルが世界のあちこちで“主流”になりつつある。私たちの住む日本でも、書店に行けばこういった「願望充足型の歴史修正主義者」たちが書いた本が山積みになっている。日本はアジアを占領したことなどない、世界が戦時中の日本に感謝・感動している、日本の歴史には一点の曇りもない、といったテーマの本を見ると、並行世界に迷い込んだのかと頭がクラクラするが、その史実の歪曲や論証の不正確さなどを愛読者たちは誰も気にしていないようである。
 ユダヤ人思想家のハンナ・アーレントは、ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺)で中心的役割を担ったといわれるアドルフ・アイヒマンの裁判傍聴記『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(みすず書房、新版2017年)の中で、その世紀の極悪人が、法廷では平凡でごくまじめそうなおとなしい官吏にしか見えなかったことを明らかにする。アーレントはそこから「悪の陳腐さ(Banality of Evil)」という概念を生み出し、国家権力に服従することで、こういった小人物が「怪物」に変貌する凄まじさを論じる。つまり、社会に蔓延して世界を壊滅させるような悪とは、実はこういった「ノーマル」=“ふつう”の人が思考や判断を停止して行う、表層的で凡庸な悪なのではないか、と考えるのだ。
 まさに今回の容疑者は、アーレントの文脈において「陳腐」で「凡庸」な悪の人であり、多くの学者などが検証を重ねてきた史実よりも、自分が目で見たりネットで行きあたったりした情報のほうを真実と考え、それに合わせて歴史を簡単に無視したり修正したりするという現代的な文脈において、まさに「ふつうの人」だといえる。彼が繰り返した「ふつう」という自己認識は、ある意味で正しかったのだ。
 しかし、誰もが気づくように、こういう人が本当に「ふつうの人」としてマジョリティになったとしたら、あっという間に社会は荒廃するだろう。
 いま、やるべきことは、彼のような「ふつうの人」にならないようにすることなのだ。「ふつうではない人」、それは、昔ながらのやり方で、いま目の前になくとも「史実」を大切にする人、歴史を「塊=マッス」として捉えたり無視したり書き換えたりすることなく、なるべく時間軸の中でできごとを捉える人、何かを主張するときには論拠を示して意見を展開できる人、などを指す。
「ふつうの人」に注意。「ふつうの人」にはならない。そんな時代が来たのだ。

著者情報

医師

香山リカ

かやま りか

1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。

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