生まれた時から死ぬまで経験する性差別
仁藤夢乃(社会活動家)
さらに私はその日、ちょうどいい靴がそれしかなくて、久しぶりにヒールのある靴を履いた。少し歩いただけで足が痛くなって、筋肉痛になり、「10代の頃は毎日当たり前のようにもっともっと高いヒールの靴を履いていたけど、こんなに負荷をかけていたのか」と感じた。大雨の中、少し傾斜のある道をスタスタ歩く夫の背中を見ながら、女たちが強いられてきた数々のことを想った。悔しくて、涙が出た。
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みんなで集まって、食べておしゃべりしているのを彼女が好きだったことから、お別れ会では料理がたくさん用意され、参加者の方々といろんな話をした。紛争が絶えないパレスチナ・ガザ地区のことや朝鮮学校のこと、住民と自治のこと、社会運動のこと、映画の話など。
彼女のご家族は、彼女が性差別と性暴力、性搾取の本をつくるために最期まで仕事をしていたこと、それが完遂できなかったことだけが心残りだっただろうと何度も話されていた。
彼女のことを知る方々は「彼女は厳しく、はっきりものを言う人だった」と口々に話していた。しかし、Colaboで一緒に過ごした女性たちの印象は少し違っていた。特に、差別や性暴力のことに厳しかったという。「彼女に怒られた」との思い出がある人が多かったようだが、私が「Colaboとつながる女性たちは怒られたことがない」と言うと驚かれた。彼女は他人にも厳しかったけど、自分にも厳しい人だったという。
きっと彼女の厳しさは、私たちにしてみればあたり前のものだったのではないかと思った。彼女が「おかしい」と思うことは、私たちも日頃からおかしいと思っていたから、私たちは怒られることはなかったけど、いろいろなことに一緒に怒っていた。そして彼女は、そういう社会をつくっている一員として行動し続けていた。
先述したように彼女は病気がわかってからも、Colaboの活動に参加し、能登の被災地に行ったり、夜の街で開催しているバスカフェの活動に参加して帰りが遅くなったりしていた。無理はしてほしくなかったけれど、彼女が自分の健康状態を考えながら、自分で決めて来ているから、誰も「やめなさい」とは言わなかった。
お別れ会からの帰り道、私たちは何が暴力で何が差別になるのかやその構造、おかしいことがあったら怒ること、自分の責任として、社会の一員として行動することを共有する、説明しなくても分かり合えることがたくさんある関係だったのだと気づいた。
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彼女が亡くなったその日も、私たちは書籍づくりの会議を予定していた。彼女のベッドのそばには、私からの「宿題」をまとめたものが置いてあったと聞いた。自分のことを言葉にするなんておこがましいと、積極的に語りたがらなかった彼女が「普通だったら断るんだけどね」と言いながら「宿題」をしてくれていた。
私が「宿題」を出した後、彼女から「これまで自分の病気についてなるべく客観的に考えようとしていたけど、仁藤さんからの返信を読んで、初めてたくさんの涙が出た」と連絡があった。そこには「お気遣いありがとうございます」とも書かれていた。「お気遣い」とはどういうことか――すぐにはわからなかったのだけど、「自分が決めたことを貫き通す、責任感・正義感のある、まっすぐに強く生きた人」であったと、お別れ会に参加した皆さんからお話を聞いて少しわかった気がした。
私は、彼女と一緒にいられる時間が残りわずかであることを前提に、その先の未来の話をして、彼女の想いも一緒に形にすることを約束し、そのために自身の想いや経験を言葉にして残してほしいとお願いした。「お気遣いありがとう」の意味は、最後の力を振り絞って「悔しいけど最期までやります。貫かせてくれてありがとう」ということだったのではないかと思った。
そんな彼女に、死ぬ間際まで女性差別を経験させるこの社会に、本当に腹が立つ。差別の中を生きて、そして死んでいった女性たちのことを忘れずに、彼女たちと共にこの性差別社会を変えていきたい。そのためにも「女性人権センターを絶対つくるからね!!」と、棺の前で大泣きしながら約束してきた。