民族紛争――何が悲劇を引き起こすのか
吉田徹(同志社大学教授)

映画「ノー・マンズ・ランド」より。写真:Album/アフロ
『ノー・マンズ・ランド』――起こるべくして起きたのか
上述のように、戦後ヨーロッパは帝国としての亡霊に悩まされましたが、それを克服したと思った途端に、帝国解体に伴う新たな民族紛争に悩まされることになりました。その最たる例が1991年から2001年まで続いた旧ユーゴスラヴィア紛争でした。この紛争では、他民族地域を自民族地域へと塗り替えようとする「民族浄化」という忌まわしい言葉まで生まれることになりました。2026年8月、8000人余りのボスニア(ボシュニャク)人を虐殺して「ボスニアの虐殺者」と呼ばれ、旧ユーゴ国際戦犯法廷で有罪となったラトコ・ムラジッチが収容先で死亡するというニュースが飛び込んできましたが、「ヨーロッパの裏庭」で再び民族紛争が起きた経験は、今でもヨーロッパ人にとってのトラウマとなっています。
旧ユーゴ紛争と一言でいっても、実際は1991年のスロベニア、クロアチア独立に伴う紛争、さらに多くの死者を出した92年からのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、96年からのコソボ紛争といった、一連の相互波及的な民族紛争からなる出来事です。ここで取り上げる『ノー・マンズ・ランド』(ダニス・タノヴィッチ監督、2001年)は、このうちボスニア人(ムスリム)、セルビア人、クロアチア人が対立し、民間人・軍人あわせて約10万人もの死者数を出したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を題材としています。
この『ノー・マンズ・ランド』は、深刻な題材ではあるものの、ユーモアある演出でそれを覆い隠し、しかし振り返ると実に残酷な事態を生み出した民族紛争であることを認識させられるシチュエーション映画でもあります。
物語は、ボスニア兵であるチキとツェラ、そして敵対するセルビアの新米兵士ニノの3人を軸に進みます。チキとツェラは、所属する偵察部隊が攻撃され、「ノー・マンズ・ランド」、すなわちボスニアとセルビアの中間地帯にある塹壕へと逃げ込みます。その塹壕に偵察に来たのが、セルビア人のニノとその上官でした。上官は、気絶していて死体と間違われたツェラの体の下に地雷を埋めます。死体を回収するボスニア人を巻き込むための策略です。チキは上官を殺す一方、ニノを殺すのをためらい、生かしておくことを決断します。
「なぜお前らはこの美しい国を破壊する?」「独立を望んだのはそっちだ」「お前らが仕掛けた戦争だ」「あんたらが仕掛けたんだ」――2人は戦争の正当性をめぐって口喧嘩を交わします。この会話は、軽妙な掛け合いとして演出されていますが、「敵対する者同士では、互いが相手への攻撃を正当防衛として認知するため、紛争を止める誘因(インセンティブ)を持たなくなる」という、紛争理論の知見と整合的です。
ただし、塹壕から出れば、敵味方関係なく撃ち殺されるため、2人は塹壕で「共存」することを余儀なくされます。社会科学では「囚人のジレンマ」や「ナッシュ均衡」などと呼びますが、それぞれの利益が異なるものの、現在の状況を打破しようとすると、いずれの利益も失われるという構図がここに再現されます。こうした膠着状態の中では、チキとニノの間には奇妙な友情すら生まれます。民族紛争というマクロな事象を、塹壕という縮小された空間で再現している点がこの作品の秀逸さを際立てます。
敵対する者同士で生まれた均衡を破るのは、平和維持の任務に当たっていた国連のPKO(国際連合保護軍=UNPROFOR)です。使命感に駆られたフランス軍兵士の決断で、塹壕から2人を救い出すための作戦が展開されます。PKOはメディアを利用して、無事にチキとニノを塹壕から退避させることに成功します(PKO軍を構成するフランス、イギリス、ドイツ軍の微妙なすれ違いも作品の見どころのひとつです)。ただし、PKOはツェラの体の下に埋められた地雷の除去には失敗します。ツェラは動けぬまま塹壕に放置され、さらにチキとニノは溜まったフラストレーションから、その必要性がないにもかかわらず、互いに殺し合います。平和研究では、国連をはじめとする外部からの介入がむしろ紛争をエスカレートさせたり、長期化させる事例もあることがわかっていますが、危うい均衡点が崩壊すると、さらに紛争が激化するというこれまでの研究の指摘とも重なります。
本作とはまったく異なるタッチであるものの、2025年に公開されたアレックス・ガーランド監督の『ウォーフェア』と同様、かくして戦争の無益さが告発されることになります。憎み合う当事者たちはもちろん、国連も、メディアも、1人の果敢な兵士の行動も紛争を止めるには至りません。地雷が「メイドインEU」だとされているのも、「ヨーロッパの裏庭」で起こった殺戮の事態に対して、各国が無力だったことに対する痛烈な批判となっています。事実、ボスニア内戦は、アメリカ主導のNATOによる空爆作戦があって、初めて終結への道が開けました。
もっとも、作品を振り返ってみるとき、和解の契機が皆無ではなかったことも示唆されます。それはチキとニノがともに白旗をあげて塹壕から脱出しようとしたときかもしれないし、2人の故郷が実は同じでガールフレンドと知り合いだと知ったときかもしれません。しかし、それも後知恵にしか過ぎず、民族間の殺戮は起こるべくして起きたのだという、ほろ苦い感覚をこの映画はもたらします。