福島を語る(5)被ばく牛とともに生きる
三浦英之(新聞記者、ルポライター)
吉沢正巳
福島の原発被災地を取材する人で、吉沢正巳さんの名前を知らない人はいない。福島県浪江町にある「希望の牧場」の代表として、原発事故後、避難区域に置き去りにされた牛たちの世話を10年以上続けている人物だ。一方で、その名前が新聞やテレビといった大手メディアで報じられる機会は驚くほど少ない。「激しすぎる」のだ。「カウ・ゴジラ」と呼ばれる牛の模型をあしらった街宣車に乗り込んで、国会周辺や東京電力、福島県庁、東京五輪の聖火リレーの会場に乗り込み、大音量で演説をぶちまける。「東京電力は『被災者に寄り添う』なんて噓を言うな。十分な賠償金も支払わないくせに!」「復興五輪? ふざけるな! 福島は復興なんかしていないぞ!」。一見、過激にも思えるその主張は、よく聞いてみるとほとんどが事実であり正論でもある。吉沢さん、なぜあなたは叫び続けるのですか? (三浦英之)

「希望の牧場・ふくしま」代表の吉沢正巳さん
原発が爆発しても牧場にとどまった
三浦 2011年3月11日に地震が起きたとき、吉沢さんの周囲はどのような状況でしたか?
吉沢 福島県二本松市にある会社「エム牧場」の浪江農場の現場責任者として330頭の牛を預かり、黒毛和牛の繁殖・肥育をしていました。地震が起きたときは買い物をしていて、津波が来るという放送を聞いて急いで牧場へ戻ったんです。牧場は停電していて牛の飲み水が出なくなっていたので、ディーゼル発電機を使って少しずつでも飲めるようにしたりしていました。翌朝、この牧場に福島県警の通信部隊が来ました。彼らは、ヘリコプターで福島第一原発の上空から撮影した映像を、この牧場を中継して県警本部に送っていたんです。ところが、1号機が爆発して、県警本部から撤退命令が出された。「われわれは申し訳ないけど帰る。もうここにはいないほうがいい」と彼らに言われました。でも、私は牛がいるから避難はしませんでした。
三浦 3月12日早朝、5時44分に政府が福島第一原発から10キロ圏内に避難指示を出しました。この牧場は原発から14キロ離れているので、その時点では政府の避難指示の区域から外れていたわけですね。ところが、15時36分に1号機が水素爆発をし、18時25分には政府が20キロ圏内に避難指示を広げました。浪江町では政府からの避難指示を確認できないまま、報道で状況を知った馬場町長が、12日の早朝に浪江町の中心部の住民を津島地区へと避難させ、15日には隣接する二本松市への再避難を決めています。そうしたなか、牧場に残ることで被ばくするかもしれないという恐怖はありませんでしたか?
吉沢 被ばくが怖いというよりも、牛をどうしようということばかり考えていました。同居していた姉と甥には、危険だから早く逃げるように言ったんですが、不便な体育館の避難所を嫌がって、彼らもしばらく牧場にとどまっていたんです。14日には、牛舎で餌をやっているときに3号機が水素爆発をして、花火が破裂するようなものすごい音が響きました。15日には4号機も水素爆発をし、2号機からは大量の放射性物質が放出された。牛たちは取引先から買い取りをキャンセルされてしまい、もはやこれまでかと思いました。同居していた二人には、15日に牧場を離れて二本松市へ行き、その後千葉の実家へ戻ってもらいました。

2022年1月に『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』(集英社文庫)を上梓し、帰還困難区域などの原発事故の取材を続ける三浦英之さん。
東京電力へ乗り込んで訴えた
吉沢 そんなときに、東電が原発から撤退するという報道を見て、その無責任さに怒りがこみあげました。一方で、自衛隊は決死の覚悟でヘリコプターから原発へ放水していた。そこで私は、居ても立っても居られなくなり、車にスピーカーを載せて国道4号線で東京へ向かったんです。もともと反原発の立場で町長選挙などにも出ていたので、この原発事故には声を上げなくてはならないと考えていたんです。
17日の夜に東電本店に着くと、報道の中継車と機動隊の車でいっぱいでした。「明日は警察に許可をとって、ここで演説するんだ」と決意して、その日は眠れないほど興奮していました。そして、18日早朝に東電本店へ乗り込んだんです。おそらく原発事故のあと福島県民として東電へ乗り込んだのは、私が最初でした。
「330頭の牛がたぶん全滅する。もう俺は帰れないんだ。弁償しろ」「自分たちのつくった原発の事故を止めずに、なんで撤退して逃げるんだ」「自衛隊とともに死んででもこの原発をおまえたちが止めるんだ」。応対した東電の総務の担当者は、泣きながら私の話を聞いていました。1週間、東京で野宿をしながら、東電、原子力安全・保安院と抗議して、農水省に牛を助けてくれるよう申し入れました。それから、「枝野官房長官に会わせろ」と首相官邸にも行きました。
三浦 震災直後、枝野官房長官は、原発事故について「ただちに影響はありません」という発言を繰り返していました。「ただちに影響はない」と言っても、「そのあとに」については影響があるのかないのか。私は当時、宮城県の沿岸部で津波の取材をしていたのですが、テレビなどでこの発言を聞き、政府の中枢にいる人間として、特に福島で暮らしている人々に対し、あまりに無責任ではないかと感じていました。
吉沢 政府としては、パニックになるのを恐れたんでしょうね。実際、原発事故を受けて全町避難となった浪江町の住民はパニック状態でした。いきなり放射能だと言われても、シーベルトもベクレルも何だかわからない。とにかく着の身着のままで、避難するにしても燃料もないし道路も壊れていて移動できずに体育館へ押し込められていたわけです。目の前でこんな大事故が起きているのに、官房長官の発言を聞いて「この野郎!」と思いましたね。

彫刻家・知足美加子さんから寄贈された作品「望郷の牛」に自ら手を加えた牛のオブジェとともに、吉沢さんは全国各地で街宣活動をしている。
国からの殺処分命令
三浦 避難指示が出されて、他の同業者の方々は、牛たちをつないだまま、あるいは「放れ牛」にして、避難していきました。吉沢さんは、東京から戻られたあと、どのように牛たちの世話を続けたのでしょうか?
吉沢 牧場の社長が「牛たちに餌を届けて、見捨てないようにしよう」と言いだしたんです。牛たちは、牛舎に入れたままだと全滅するので、社長が放し飼いにしました。それからは、被ばくを覚悟しながら、3日に一度、立ち入りを制限するために設置されたバリケードを越えて、牧場に餌を置きに来てはすぐ帰るということを繰り返していました。放置された近所の酪農家の牛舎に行ってみたら、牛たちは餓死寸前でまさに生き地獄でした。
三浦 5月12日には、政府が、福島第一原発から20キロ圏内の家畜を殺処分しろという指示を出しました。そうしたなかで、他の同業者の皆さんは、やむを得ず牛たちを殺処分していきましたね。
吉沢 牛飼いとして、牛を見捨てたらもう二度と牛の世界には戻れない。だから、社長と二人で「全頭殺処分という国の命令には絶対に従わない」と決めました。2011年7月には、「希望の牧場・ふくしま」プロジェクトを立ち上げて、ライブカメラで牛たちの様子を配信したりサポーターを募ったりして、2012年に一般社団法人化しました。牛の餌代だけでも1カ月に60万円はかかります。今までは、希望の牧場を理解してくれる全国の支援者の皆さんの募金に頼ってやってきました。ただ、コロナ禍でそれも底をついてしまって、今は東電の賠償金を切り崩しながら、なんとかやっています。
2010年に宮崎で口蹄疫が流行したときには、約30万頭の牛や豚が殺処分されました。口蹄疫の場合は、法定伝染病だから、なんとしても殺処分しなければどんどん広がってしまいます。ところが、原発事故の放射能汚染というのは、べつにうつるわけでもないし、単に被ばくして売れなくなったということだけなんです。
このようなことは牛だけではなくて、避難生活のなかで、さんざん言われたことです。「放射能がうつるから来ないでくれ」「福島のものはいらない」「福島から嫁はもらうな」。福島の人たちは、避難しながらあちこちでひどいことを言われたんです。

希望の牧場では、牛たちの餌として東北・北関東から牧草ロールなどの提供を呼びかけている。