日本はなぜ国際捕鯨委員会から脱退したのか
森下 それは全く間違いですね。日本は拒否していないんですよ。そのアイルランドからの提案が議論された97年以降のIWCの記録を調べれば明らかですが、日本は「満足はしていないけれども、提案そのものは議論のベースになる」という言い方をしました。ニュージーランドやアメリカは、この提案をベースに議論せざるを得ないだろうと、中立国に近いともいえる主張をしていました。しかし、オーストラリアや、近年反捕鯨勢力として大きな影響力を持つようになったブラジルを中心とする南米諸国などは、沿岸捕鯨も全く認めないという主張のままだったので、結局その提案は失敗したのです。
佐々木 今回の脱退で、国際捕鯨取締条約に基づいて南極海での調査捕鯨ができなくなるわけですが、日本政府として南極海へのこだわりは、なかったということですか?
森下 IWCを脱退することによって、日本は「今後南極海へ行きません」と宣言しているわけではありません。50年後、100年後になるかもしれませんが、将来、やっぱりクジラが動物たんぱくとして必要だというときのために、目視による調査はずっと続けてデータを取り続ける責任が日本にはあると思います。
IWCを脱退して南極海での調査捕鯨をやめても沿岸で確実に商業捕鯨を再開するか、あるいは妥協の余地がない中で全部を失いかねないことを覚悟したうえでIWCに残って粘り強い交渉をやるか。そういう判断を迫られた状況でIWCを脱退することを決断したわけです。国際交渉の中では100パーセント取るというのはあり得ない。反対に、完敗するわけにもいかないわけですよ。
佐々木 今後、IWCを脱退したことで、ほかの漁業交渉にも影響が出ることを懸念する人がいます。森下さんは、IWC以外にマグロなどの漁業資源を管理する国際会議でも交渉してきた経験がありますが、そうした懸念についてどう思いますか?
森下 いや、影響はないでしょう。ほかの漁業交渉でIWCのような状況になったことはないですから。例えばマグロの資源量が減少している問題が出てきても、マグロ自体の利用が否定されて漁獲枠がなくなることはなかったし、お互いに話をして物事を決めています。IWCではそうした現実的な交渉ができていないのです。

商業捕鯨再開の実現性
佐々木 19年6月30日にIWCを正式に脱退して、7月1日からすんなり商業捕鯨をスタートすることはできるのでしょうか。
森下 ええ、そうなると思います。ただ法的な問題や物理的な問題で、IWCを抜けたらなんでもできる、というわけではありません。200海里の排他的経済水域(EEZ)を定めている国連海洋法条約においても、EEZ内だからといって自由にできるというようになっているわけではない。あるいは、もう商業捕鯨をやる力が残っていなかったという話になるかもしれない。残念ではありますが、やはりビジネスですから、そうなったときに国が捕鯨産業の延命措置を取る理由はあるのか。取るとすればしっかりした国民的な合意がないといけないと思います。
佐々木 政府の補助金がなければ商業捕鯨として成り立たないとすると、国民の合意を得るのは難しいのではないでしょうか。
森下 そもそも調査捕鯨と商業捕鯨のコスト構造は全く違います。調査捕鯨が補助金を必要としたから商業捕鯨も必要というのは短絡的です。ただ、明日から突然、商業捕鯨解禁だから勝手にやってくださいというのはなかなか厳しいので、徐々に独り立ちできるように経過措置を取ることはある程度理解は得られると思います。
もし、補助金などの経過措置を取ったうえで、それでも採算に合わなくなってやめることになったとしても、それは関係者も納得がいくと思うのです。外から押しつけられて、自分たちのアイデンティティを捨てろと言ってやめさせられたわけではないからです。
佐々木 全てのビジネスに事業計画があるように、商業捕鯨を再開した後、何頭捕獲してどれくらい売れれば採算が取れるのかといった数字はまだ出ていないのでしょうか? ビジネスとして成立するかどうかは、蓋を開けてみたあとの需要によるのですか?
森下 私は需要の問題よりは、売り方次第だと思います。
佐々木 例えばどういうことですか?
森下 仮に、南極の調査捕鯨による鯨肉の供給がなくなっても、沿岸捕獲で調査捕鯨分を含めた今と同じくらいの頭数は捕れると仮定しましょう。輸入も合わせると、クジラの供給量は年間4000〜5000トンです。つまり、日本の国民一人当たりにすると年間40グラム程度です。これを全国のスーパーや東京で売ろうとすると、あまりに品薄で鯨肉を欲しい人も、探すのが大変だと思います。
そこで、私は、極論ではありますが、東京では売らない方がよいのではないかと問題提起しています。例えば、長崎とか下関だけでしかクジラを食べられないというような流通システムにしたらどうなるか。長崎の一人当たりのクジラ年間消費量は、今でこそ減少しましたが、それでも全国平均の4倍なんです。常にそこに行けば豊富に鯨肉があって、料理の仕方を知っている人たちがいて「あの町に行けばおいしいクジラが食べられる」という状況ができる。そうなれば、多分県外からもクジラ目当ての観光客が来て、コンスタントにかなり売れて、売る方としてもやりがいのある商品になると思うんですよね。
日本側の情報発信の問題
佐々木 私はいろいろなところで捕鯨に関する日本側の情報発信がよくないと言っているのですが、よく例に出すのがIWCの取材のときの経験です。2010年のモロッコでのIWCでは、プレスブリーフィングへ行くと、会見は全て日本語で、捕鯨賛成の日本人しか会場に入れませんでした。そして4年後にスロベニアでのIWCへ行ってみたら、今度は私も追い出されてしまいました。スロベニアのカメラクルーと会場に入ろうとすると、どこの報道機関に所属しているかと聞かれて「個人でドキュメンタリー映画を撮っています」と言ったら「退出してください」と。その理由が、「違和感があるから」で本当に衝撃を受けたんですね。国際会議で、日本がこれだけ批判の対象になっているのに、日本のマスコミとしか話さない。こうした対応は非常に問題があると思いました。外国メディアの記者たちは、日本政府の方にインタビューを申し込んでも断られると不満を漏らしていました。日本政府だけではなくて、捕鯨賛成国のアジアやアフリカの政府代表者のところへ行っても、話したがらないんです。
一方、欧米の反捕鯨国の代表者のところへ行ってカメラを向けると、誰もが気さくに話をしてくれるわけです。こういう状況だったら、反捕鯨国側のメッセージだけが拡散して捕鯨国側が不利になるのは当然ではないかと思いました。
森下 それについては、私も反論はありません。ただ個人的には、リクエストには全部答えるようにしてきたつもりなんです。日本の政府や組織は、外国メディアに対して被害者意識を強く持っているように思います。難しい質問をされて詰まってしまったり、あるいは外国メディアの批判的な記事を見たりして、もう二度と外国メディアには話すもんかという感じになってしまっている。
以前は私の名前で日本の捕鯨に関するQ&Aのペーパーを日本語・英語の両方で出したりしていましたが、それも偉い役人が「そんなのやる必要ない」と言ったら、私の意見は通りません。残念ですが、だんだんプレス対応がしっかりできなくなっていたのかもしれません。
佐々木 今回のIWC脱退についても、シー・シェパードは、自分たちのこれまでの妨害活動の結果として、日本が南極海から撤退することになった、と「勝利宣言」を出しました。くやしいけど、さすがだなと思いました。彼らのメディアの使い方は、見事です。日本が一生懸命正論を言って、科学的な事実を根拠に議論しようとしても彼らには敵わない。耳にすっと入ってきやすい言葉で、極論を言う人たちのメッセージが、ソーシャルメディアなどを通して早く広く拡散していくという、今はそういう世の中なんですね。
森下 サウンドバイト(抜粋した短い言葉)は世界を動かしますからね。日本の立場はサウンドバイトを出すには、適していないのは確かです。何を説明するにしても、データを元に、どうしても長い時間をかけて話さないといけないという弱みが日本にはあります。
オーストラリアのアデレードで開かれた2000年のIWCのときには、日本も現地の広告代理店を雇ったことがありました。ただ、それにもお金がかかります。また、そのときの広告代理店が反捕鯨側に脅されて、他でクライアントを失ったりしたのです。それで、会議の終わりまでは仕事をしていましたが、それ以降はできないということになりました。

象徴としての捕鯨問題
佐々木 問題は、結局誰のための捕鯨なのかということですね。私も以前は、海外からこれほど批判されていて、日本人の多くはクジラをもう食べないのに、本当に捕鯨を続ける意味はあるのかと思うこともありました。でも和歌山県の太地町(たいじちょう)で長年取材してみて、捕鯨は単なる経済活動とか食の問題ではないとわかりました。太地町のように捕鯨を400年も続けてきた土地の人にとっては、アイデンティティだし、町の誇りなんですよね。「捕鯨をやめて違う仕事をやりなさい」とか、「日本は豊かなんだからクジラじゃなくてほかに食べるものがあるでしょう」などと外国の活動家は言うわけですが、これは人間の尊厳の問題なんだということに気がつきました。
森下 捕鯨をやめろというのは、アイデンティティを放棄しろと言っていることになるわけですからね。
著者情報
東京海洋大学教授
森下丈二
もりした じょうじ
1957年、大阪府生まれ。京都大学農学部水産学科卒業。米国ハーバード大学大学院卒業(公共政策学修士)。農学博士(京都大学)。1982年に農林水産省入省。国連環境開発会議(地球サミット)、ワシントン条約会議など、海洋生物資源の保存管理の観点から一連の環境問題について担当。1993年より在米国日本大使館一等書記官。捕鯨問題、大西洋マグロ保存国際委員会を中心に日米漁業交渉を担当。帰国後水産庁に復帰し、1996年より国際課にてミナミマグロ問題などを担当。1999年より遠洋課捕鯨班長として、国際捕鯨委員会(IWC)の日本代表団の一員として活躍。2008年より水産庁参事官。2013年より水産総合研究センター国際水産資源研究所所長を経て2016年4月より東京海洋大学教授。
著書・論文には、「Whaling in the Antarctic – Significance and Implications of the ICJ Judgement」共著、BRILL NIJHOFF, 238 -267 (2015)、The truth about the commercial whaling moratorium 単著、Senri Ethnological Studies, 83, 337-353 (2013)、「捕鯨の文化人類学」共著、成山堂書店, 283-301 (2012)、「水産の21世紀-海から拓く食料自給」共著、京都大学学術出版会, 51-76 (2010)、What is the ecosystem approach for fisheries management? 単著、Marine Policy, 32, 19-26 (2008)、 Multiple analysis of the whaling issue: Understanding the dispute by a matrix 単著、Marine Policy, 30, 802-808 (2006)、「なぜクジラは座礁するのか? 「反捕鯨」の悲劇」単著、河出書房新社, 238p (2002)など。
国際捕鯨委員会、南極海洋生物資源保存委員会(CCAMLR)、北極公海漁業協議日本政府代表。北太平洋漁業委員会(NPFC)科学委員会議長、国際捕鯨委員会(IWC)前議長。
映画監督・プロデューサー
佐々木芽生
ささき めぐみ
北海道札幌市生まれ。1987年よりニューヨーク在住。フリーのジャーナリストを経て、1992年よりNHKアメリカ総局勤務。『おはよう日本』にてニューヨーク経済情報キャスター、世界各国から身近な話題を伝える『ワールド・ナウ』NY担当レポーター。その後独立して、NHKスペシャル、クローズアップ現代、TBS報道特集など、テレビの報道番組の取材、制作に携わる。2008年、ささやかな収入で世界屈指のアートコレクションを築いたNYの公務員夫妻を描く、初の監督作品『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』を完成。世界30を超える映画祭に正式招待され、米シルバードックスドキュメンタリー映画祭、ハンプトン国際映画祭などで、最優秀ドキュメンタリー賞、観客賞など多数受賞。NY、東京でロング・ランを記録した他、全米60都市、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで公開される。2013年、続編にあたる『ハーブ&ドロシー2 ふたりからの贈りもの』を発表。1作目とともに、現在も世界各国の劇場、美術館、アートフェアで上映が続いている。2014年、NHK WORLDにて、日本の美術を紹介する英語番組ART TIME-TRAVELERナビゲーター。2016年、3作目にあたる長編ドキュメンタリー映画『おクジラさま ふたつの正義の物語』を完成。本作は2015年TOKYO DOCSにて最優秀企画賞受賞、2016年釜山国際映画祭コンペティション部門に正式招待された他、ロードアイランド国際映画祭、トロント・リールアジアン国際映画祭で最優秀作品賞受賞。日本では、2017年に全国で劇場公開された。同年8月、初めての書き下ろしノンフィクション作品『おクジラさま ふたつの正義の物語』(集英社)が出版され、科学ジャーナリスト賞2018受賞。