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政治・経済

あいちトリエンナーレ 補助金不交付問題で表出した「公共の解体と私物化」

表現が規制、弾圧される社会。それであなたはいいのですか?

想田和弘(映画作家)

 憲法に定められているように、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」わけだから、国には、国民があいちトリエンナーレのような芸術祭に入場したいと望むなら、入場できるような環境を用意する責任がある。したがって国は補助金を出し、入場料を低く抑える努力を支援することで、市民が芸術祭へ入場するためのハードルを下げるわけである。
 では、そもそもあいちトリエンナーレのような芸術祭を、税金を投入すべき公共性の高い「みんなのもの」であると評価・認定するのは、いったい誰なのであろうか。
 先進国では、その評価・認定は政府が行うのではなく、「アーツカウンシル」と呼ばれる外部の専門家委員会に委ねられるのが通例である。なぜなら政府が直接認定を行ってしまうと、政府による芸術作品の恣意的な選別ないし事実上の検閲が行われやすくなり、客観性や公正さが担保しにくくなるからだ。実際、アーツカウンシルの仕組みは、ナチス・ドイツが芸術を政治的に利用した事実を踏まえて、イギリスを中心に発達したものである。
 あいちトリエンナーレへの補助金も、そのような考え方と手続きに沿って、交付が決まっていた。具体的には、「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」の外部審査員6人の審査を経て、2019年4月25日付でトリエンナーレを含む26件の採択が決まった。そのうえで愛知県は5月30日、補助金交付申請書を提出し、文化庁は受理していた。
 したがって文化庁が補助金交付を取り消そうとするなら、当然、交付を採択した外部審査員らに再審査を委ねるべきであった。審査員を通さずに補助金交付の可否を政府が決めてしまえるなら、外部審査員の存在自体に意味がなくなり、文化行政の根幹が崩壊してしまうからである。
 外部審査員を務めた野田邦弘鳥取大学特命教授は10月2日、文化庁に外部審査員を辞任すると申し出た。野田教授は朝日新聞に対し、「一度審査委員を入れて採択を決めたものを、後から不交付とするのでは審査の意味がない」「理屈は後付けだと思う。そもそもやり方がありえない」「外部の目を入れて審査し、採択したあとに文化庁内部で不交付を決めるというやり方が定着してしまわないか、危惧している」とコメントしている。
 また、共産党の本村伸子衆議院議員が文化庁に不交付決定のプロセスを問い合わせたところ、文化庁は1日、「あいちトリエンナーレへの補助金不交付を決定した審査の議事録はございません」と文書で回答している。
 このような政治的案件を、官僚だけで決定することはありえない。宮田亮平文化庁長官か萩生田文科相、あるいは安倍首相が決めたものであることが疑われる。
 ここで強調しておきたいのは、補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきたということである。つまりそれを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすることに等しい。
 実際、今回の論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定は、「決定者による税金の私物化」以外に形容のしようがない。脅迫者への加担という問題に鑑みれば、「表現の不自由展」が中止されたからといって、それに対する補助金約420万円を不交付とすることも不適切だが、トリエンナーレ全体に対する7820万円を不交付とするに至っては、あまりにも恣意的で論理性を欠いている。決定者は「みんなのもの」である税金の使い道を、自分の感情や気分によって独裁的に決めたと言えるのではないだろうか。少なくとも、公共のお金である税金の扱い方として、納税者からの精査に耐えうるものではない。

加計、森友、NHK、水道民営化、種子法……続々と進む「公共の解体と私物化」

 ここから透けて見えるのは、安倍政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」というベクトルの存在である。
 たとえば森友学園事件では、国有地という公共の財産=みんなのものを、安倍昭恵首相夫人と懇意にしていた森友学園に対して、8億円以上もの値引きをして払い下げたという疑いが濃厚だ。要は安倍夫妻が「お友達」のために国有地を私物化したという疑惑が持たれている。
 加計学園問題では、50年以上どこの大学にも認められていなかった「獣医学部の新設」が、安倍首相の長年の友・加計孝太郎理事長への特別の便宜として、加計学園に認められたという疑惑がある。これも事実だとすれば、大学行政という公共のプロセスやリソースの私物化である。
 ついでに森友問題では、財務省理財局による決裁文書改竄(かいざん)問題も発生した。財務省が国有地払い下げの経緯を記した文書を国会に提出した際、首相や昭恵夫人の関与が疑われかねない記述を削除していた問題である。これは財務省という、本来ならば「みんなのため」に仕事をすべき公僕の集団が、首相夫妻の利益のためだけに不正を働いていたことを示している。つまり財務省すらも、首相によって私物化されていたと言ってよいだろう。
 この文脈で言えば、公共放送であるNHKの私物化も忘れてはならない。第二次安倍政権が誕生して間もなく、安倍内閣はNHKの経営委員会に百田尚樹氏や長谷川三千子氏ら首相に近い人物を4人も一気に送り込んだ。すると経営委員会は、NHKの会長に籾井勝人氏を選んだ。「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と発言し、言論界から厳しく批判された人物である。以来、NHKの報道から政権に批判的な論調が激減し、「みなさまのNHK」ならぬ「安倍さまのNHK」のようになってしまっていることは、多くの人が認めるところであろう。
 安倍政権が強引に推し進めた、水道の民営化についても触れておこう。言うまでもなく、水道はあらゆる人にとって必要不可欠な「みんなのもの」であり、公共性が極めて高い。ところが安倍政権下、自治体が給水責任と施設の所有権を持ったまま、運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」を選択できるよう、水道法が改定された。諸外国では、水道を民営化した結果、水道料金が高騰するなどの問題が起きて、再公営化する例が増えているにもかかわらず、である。それによって誰が潤うのかはまだ定かではないが、これも「公共の解体と私物化」の流れの一環と言えるであろう。
 種子法(主要農作物種子法)の廃止も同様である。同法は、米、麦、大豆の優良な種子の生産と安定供給を「みんなのため」に必要な公共事業と位置づけ、都道府県に実務を義務づけた。そして国が必要な予算を拠出する法的根拠となってきた。ところが安倍内閣は「民間企業の参入を促す」などの理由で、2017年の国会に同法廃止法案を提出。賛成多数で可決させた。
 同法廃止を受け、代わりとなる「種子条例」を制定して従来の事業を継続する自治体が相次いでいるため、今のところ種子の生産体制は守られているようだ。しかし自治体が種子の生産をやめれば、主に外国の多国籍企業による種子の寡占が進み、農家は大企業から種子を買わざるをえなくなっていくだろう。すると種子は高騰し、農薬や化学肥料もセットで売られ、栽培法すらも企業によって指定されるようになる可能性が高い。そう考えると、種子法廃止も安倍政権による「公共の解体と私物化」のベクトルに沿うものだと言える。

究極の責任は私たち主権者に

 このように見てくると、安倍政権下、多方面で「公共=みんなのもの」が解体・私物化されつつあることがわかるであろう。あいちトリエンナーレの件は、安倍政権下で同時に進んでいる様々な動きと、ある意味でシンクロしている。いわば必然的に起きたと言えるのである。
 このまま放置しておけば、今度は税金が拠出されない表現も、規制・弾圧されていくことになるだろう。それには憲法第21条が障害となるが、今回の政府の説明が巧妙に21条問題を迂回し「手続き論」に終始したように、様々な詭弁が使われていくことになるのではないだろうか。私物化とは「貪欲」によって起きるものであり、必ずエスカレートするからである。
 日本国民のみなさんに聞きたいのは、みなさんは日本がそのような社会になっても本当によいのか、ということである。僕は外国に住んでいるが、母国が一部の人たちに所有された不自由な社会になって欲しくないので、抵抗する。今回の政府の動きも到底許容できないものだと考えている。
 容認できないのであれば、選挙で、署名活動で、路上で、オンライン上で、主権者としてその意思を示すことが肝心だ。なぜここまで安倍政権が平気で「公共の解体と私物化」を実行できているのかと言えば、それはいくら彼らが公共の私物化を進めても、世論調査の支持率がさして下がらないし、選挙でも勝ち続けているからである。
 私たち主権者にこそ、究極の責任がある。

 

著者情報

映画作家

想田和弘

そうだ かずひろ

1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』(2007)、『精神』(08)、『Peace』(10)、『演劇1』『演劇2』(12)、『選挙2』(13)、『牡蠣工場』(15)、『港町』(18)、『ザ・ビッグハウス』(18)があり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』(20)は、第70回ベルリン国際映画祭フォーラム部門エキュメニカル審査員賞受賞、〔仮設の映画館〕にて公開中、ほか全国の映画館で順次公開。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『カメラを持て、町へ出よう』(集英社インターナショナル)、『観察する男』(ミシマ社)、『THE BIG HOUSE アメリカを撮る』(岩波書店)などが多数。

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