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「表現の自由」はなぜ認められるのか

近代市民が獲得した権力批判の自由

吉田徹(同志社大学教授)

◆権力を批判する自由
「シャルリ」に話を戻そう。
 問題は「シャルリ」が継続して載せてきたムハンマドの風刺がこの表現の自由に含まれるか、それとも差別的な表現なのか、という点である。実はこれにはすでに判例が出ている。06年にデンマークの「ユランズ・ポステン」のムハンマドの風刺画を「シャルリ」が転載、これをムスリム団体が「宗教に基づく集団的差別」として告訴したが、パリ裁判所はこの訴えを退けた。判決文は、「シャルリ」は購入しなければ公衆の目に触れない媒体であり、風刺誌である限り「趣味が良い」ものを載せるものではなく、またムスリムを「直接的かつ無根拠に攻撃するもの」ではない、とした。
 言うまでもなく「シャルリ」はイスラム教批判を専門とする雑誌ではない。「趣味が良い」とはお世辞にも言えない、そのカリカチュアと文章で嘲笑と揶揄の対象となるのは、与野党の政治家、官僚、教皇、企業家、労組幹部、スポーツ選手など、社会の中で権力を持つ人々だ。
 しかし、雑誌が真に批判しているのは彼らではなく、彼らの持っている権力、つまり相対的に権力を持たぬ人々を不自由にしているものすべてである。社会の権力の在りかを目に見えるものにすることが権力に抵抗するための重要な手段であること、そして権力は社会的・文化的なタブーを設けることでその権力性を発揮しているのだから、そのタブーを侵すことが権力への批判となるのである。
 確かにイスラム教を含む宗教が権力かどうかは判断の分かれるところだろう。しかし、イスラム教が宗教である限り、それは権力なのである。宗教は、一般的にいって、良くも悪くも人々に様々な規範を押し付け、それに従うよう仕向け、個人の思考や自由に基づく選択を制約するものだからだ。そうした権力に従うのも自由である。しかしそれを――言葉や絵でもって――批判することも、自由に含まれるべきものである。
「シャルリ」の肩を持てば、彼らが批判しようとしたのは宗教そのものであって、個々のムスリムの信仰心ではない。だからムスリムがマイノリティであるかどうかも、本質的な問題ではない。権力としての宗教は、マジョリティのものであっても、マイノリティのものであっても、関係がないからだ。イスラム教は権力であるからこそ、嘲笑されてその信徒は怒るのではないか、それこそが権力である証拠ではないか、と「シャルリ」を支持する人たちは言うだろう。
 必ずしも目に見えない権力を告発することと、個々人が選択できない属性(国籍、民族、宗教、セクシャリティなど)を基準に集団を非難すること(ヘイトスピーチ)との間には大きな違いがある。
 日本が「気遣い」や「忖度(そんたく)」を重んじる社会であるとすれば、確かにフランスのような「批判」や「表現」を重んじる社会と相性が悪いだろう。どちらが良いかは一概にいえないが、そうであれば、その違いを理解した上で「表現の自由」の意味を用いるべきだ。
 もっといえば、「表現の自由」が西洋を起源に持つコンセプトであるのは紛れもない事実である。しかし、だからといってそれが無効であることを意味するわけでも、その他の社会に適用できないわけでもない。少なくとも、私たちが不自由な社会に生きていると感じる限りは、「私はシャルリ」とプラカードを掲げ続けなければならないのだ。自由を守ること、それこそがテロに対する「毅然とした態度」でなくて何であろう。

著者情報

同志社大学教授

吉田徹

よしだ とおる

1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。

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