第8回 平和ってなんだろう?(前編)
川口好美(文芸批評家)

オリンピック・パラリンピックから考える、個人と国の関係
こんにちは。みなさんは猛暑が続いた今年の夏を、どのように過ごされましたか? パリで開催されたオリンピック・パラリンピックを観戦した人もいると思います。オリンピックは〝平和の祭典〟と呼ばれていますよね。その理由の一つが「オリンピック休戦」です。ざっくりした説明ですが、オリンピックとパラリンピックの開催期間中と、その前後7日間は、戦闘を停止しましょうという約束が、「オリンピック休戦」です。1994年のリレハンメル冬季五輪から、五輪開催に先立って、国連総会で決議されるようになりました。
ところで、今回のオリンピック・パラリンピックに、特別な選手団があったのを知っていますか。「難民選手団」と「AIN」です。何が特別かと言うと、選手団はふつう国ごとに結成されますが、この二つにはそれが当てはまりません。その背景には、戦争の問題があります。
難民というのは、戦争などによる危難から逃れるために、仕方なく、生まれ育った国や地域を出た人々のことです。所属する国を失ってしまったアスリートにも活躍してほしいという願いから、「難民選手団」が結成されました。パリ五輪では、イランやシリアの出身者などが「難民選手団」の一員として出場しました。
逆に、所属する国があるにもかかわらず、国の代表としてではなく、個人として、「AIN(中立な個人参加の選手)」※1という資格で出場した選手たちがいました。ロシア国籍、ベラルーシ国籍の選手たちです。彼らがメダルを獲っても、表彰式で国歌は流されず、国旗も掲揚されませんでした。なぜ、そんなことになったのでしょうか。
みなさんは、ロシアがウクライナへ軍事侵攻を始めた時のことを覚えていますか? あれは2022年、北京での冬季オリンピックが閉会した直後の出来事でした。つまり、ロシアは「オリンピック休戦」の約束を無視して、ウクライナに攻め込んだのです。国際オリンピック委員会(IOC)はそれを受けて、ロシアと、ロシアの軍事同盟国であるベラルーシのパリ五輪参加を認めないと決めました。ロシアの行動は世界平和というオリンピックの理念に反するものだ、と判断したのですね。でも、選手のために、個人参加なら許可します、という救済策を用意しました。それが「AIN」です。選手には、軍との関わりがないか、軍事侵攻を支持していないかなどの、厳しいチェックが行われたそうです。
この二つの選手団に注目すると、国と個人の、ややこしい関係に気づきます。
まず、「難民選手団」。やむを得ない事情で、もと住んでいた国から、別の国に移動した人々。彼らがそこに留まり、暮らしていくためには、その別の国から〝あなたは難民として、ここにいてかまわないですよ〟と認めてもらう必要があります。難民と聞くと、国から独立した個人であるかのように、想像してしまいがちです。でも、その個人を、所属する国がない人だと決めているのも、やはり国なのです。

つぎに「AIN」。ロシアとベラルーシの選手だけが、国と無関係の個人として扱われました。ですが、個人と国を、そのように簡単に分けられるのでしょうか。じっさい、パリ五輪以前の柔道の世界選手権では、ロシアとベラルーシの選手が中立な個人の立場で参加したことで、ウクライナの選手は大会をボイコットしました。柔道家の山口香さんは、戦争をしている国同士の選手が直接対決することは、とても難しいのだと、インタビューで語っています。山口さんのことばを聞いてみましょう。
「現実にああやって戦争をしていたら、『スポーツは別だから……』と第三者が言ったところで、自国の人たちはどうしたってそう見てしまうし、出場している選手はその思いを背負ってしまう。だから、国の代表ではないから出てもいいんだ、というほどきれいごとの簡単な話ではない」※2
スポーツにかぎらず、現在の世界では、国と無関係に、ただの個人として活動することは、ほとんど不可能だと言えそうですね。これまでの回で、日本が明治時代に近代化し、人々のあいだに国民という意識が広がったことを見てきましたね。それは世界中で、それぞれのかたち、それぞれのタイミングで、生じた出来事でした。個人と国のややこしい関係は、そこから始まっていたのです。
とはいえ、ふだんわたしは、自分と国の関係なんて、まったく意識せずに暮らしています。みなさんも、そうではないですか。スポーツ選手のような特別な職業でないかぎり、日常の中で〝国を背負う〟という感覚を持つことは、ふつうありませんよね。なにより、日本という国が、他国と戦争していないこと、つまり平和だということが、大きな理由なのかもしれません。

日本って平和なの?
でも、あえて考えてみます。日本って、平和なのでしょうか?
イエスと答える人が、大多数かもしれませんね。日本が長いあいだ、外国と直接戦争をしていないことは、事実です。けれども、日本には多くの軍事基地があり、日本の自衛隊だけでなくアメリカの軍隊もいて、軍備にかける費用は増え続けています。ほんとうに日本が平和なのであれば、そのような費用は減っていくのが自然だと思いませんか。戦争はしていないけれど、戦うための準備を進めている。それが今の日本の状態です。これが平和だとすれば、ちょっと不自然な気がします。
〝いや、そうじゃない。軍隊がいて、兵器も揃っているからこそ、敵から攻撃を受けず、平和が保たれているんだ〟と、答える人もいるでしょう。つまり、防衛の体制を整えることが、平和のためには重要だ、と考えるわけですね。それも一理あるのかもしれません。では、この問題について、内村さんの意見を聞いてみましょう。わたしなりにかみ砕いたことばで説明します。
〝世の中には、ヘンテコな考えがたくさんあるけれど、軍備は平和の保障だ、という考えほどヒドイものはない。軍備は平和を保障しない。戦争を保証する〟※3
とてもシンプルですね! 工業の発展とセットになった軍事力の強化。それが日本の近代化の原動力でした。その結果として、日清戦争が起こったのを目撃していた内村さんには、平和のための軍備なんてウソに二度と騙されないぞ、という思いが強かったはずです。
それでも、〝戦争に備えながらも、それぞれの国がお互いを攻撃しないでいるなら、平和だと言える〟と考える人もいると思います。これに、内村さんはどう答えるでしょうか。またかみ砕いて書きます。
〝平和は、剣をさやに収めるだけでは訪れない。永遠に続く平和は、好意から出てくる。敵を敬い、敵に利益と権利を認めることから、出てくるんだ〟※4
内村さんは、武器を使わないことイコール平和ではない、と言い切っています。さやに収められた剣は、いつかまた、敵を斬るためにひき抜かれるに違いない。そう確信していたのですね。その上で、それを避けてほんものの平和を実現するには、敵への好意が必要だ、と考えていたのです。
〝国と国の争いの解決のために好意が必要なんて、こどもっぽい考えじゃない?〟そう感じる人も多いと思います。内村さんは本気でそう言っていたのでしょうか。その真意を探りましょう。
