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中絶の権利をめぐるアメリカの闘い~なぜ今、「超保守」のバックラッシュが始まったのか

渡辺由佳里(エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家)

 かつては民主党支持だった南部の福音派を共和党に取り込む戦略を立てたのはリチャード・ニクソン大統領だった。1960 年代に黒人の公民権運動を支持した民主党に対して、白人のキリスト教徒らが不満を抱いていることに着目したのだ。伝統的な男女の役割を重んじる宗教原理主義者を積極的に投票に向かわせる大きな動機は、「反人工妊娠中絶」と「反同性愛」である。組織票を持つ南部の白人のキリスト教原理主義者は、共和党にとって非常に重要な票田になっていった。共和党は、初期には選挙で勝利するために彼らを利用したわけだが、次第に党内で福音派=宗教右派が勢力を拡大し、根本的な部分で共和党を変えていった。

トランプ大統領と保守の逆襲

 2015年に最高裁が5対4で同性結婚を憲法の下の権利とする判決を下したことで、宗教右派による政治活動はさらに加熱した。彼らは最高裁がリベラルの「活動家判事」によって牛耳られているという不満を持ち、それらの判事を保守に入れ替えて「ロー対ウェイド判決」を覆すという大きな目標で勢いを増した。その彼らがこぞって期待をかけたのがドナルド・トランプ大統領だった。

 大統領候補に対する質問の中で、「ロー対ウェイド判決」にどのような見解を持っているか、そして「人工妊娠中絶は合法であるべきか、違法であるべきか?」という質問は長年にわたり重視されてきた。なぜかというと、最高裁判事を指名する権利を持つのは大統領だからだ。

 アメリカ連邦最高裁判事の定員は9人で、死亡するか引退するまで入れ替えはない。トランプ大統領は、4年の任期中に3つの席を保守派判事で埋めた。1つ目は、前任のバラク・オバマ大統領時代にできた空席だ。にもかかわらず、当時上院で多数派を占めていた共和党議員がオバマ大統領指名の候補を200日以上も拒否し続け、トランプが大統領に就任してから保守派のニール・ゴーサッチ判事を指名した。2つ目は、保守派判事の引退に伴い、トランプが保守派ブレット・カバノー判事を指名。3つ目は、リベラルのアイコンだったルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の病死により、わずか4カ月後に控えていたジョー・バイデンの大統領就任を待たずに保守派エイミー・コニー・バレット判事を指名した。
 かつてのアメリカ議会であれば、1つ目の空席はオバマ大統領、3つ目はバイデン大統領が指名することで納得されていたはずのものだった。しかし、ポリティカル・コレクトネスをものともせず当選したトランプ大統領によって勢いづいた共和党は、なりふり構わずに自分たちの権力を追求するミッチ・マコーネル上院多数党院内総務のリーダーシップによって、超保守の最高裁判事を3人も任命することに成功した。今回「ロー対ウェイド判決」を覆した5人の判事のうちの3人だ。

赤の判事は保守、青はリベラル、緑は中道を示す。ピンクの大統領は共和党、水色は民主党を示す

CNNウェブ記事などをもとにイミダス編集部作成

『侍女の物語』の世界はすぐそこに

 このショッキングな判決で、再び話題になっている本がある。それは1985年に刊行されたマーガレット・アトウッドの「The Handmaid’s Tale」(邦題『侍女の物語』、斎藤英治訳、ハヤカワepi文庫、2001年)である。

 この本は、トランプが大統領に就任した2017年にアメリカのアマゾンで最も多く読まれた本になった。Huluでのドラマ化の影響もあるが、トランプ政権下の米国がこの本の架空の国「ギレアデ(Gilead。ドラマ版では「ギレアド」)」のようになる不安が大きくなったからである。ギレアデは、キリスト教原理主義者がクーデターで独裁政権を握った未来のアメリカ合衆国として描かれている。白人至上主義で、徹底した男尊女卑の社会である。国民は男女とも厳しい規則で縛られ、常に監視されている。環境汚染などで女性の出産率が激減しており、子どもが産める女性は貴重な道具として扱われる。中絶はむろん犯罪であり、施した医師は処刑される。不倫や再婚も罪とみなされ、子どもを産む可能性がある女性の場合には「親として道徳的に適性を欠く」として再教育され、子どもを産むための「Handmaid(侍女)」として、妻が子どもを産めないでいる男性司令官にあてがわれる。

 2016年大統領選挙の予備選の時、バーニー・サンダースを支持する若い女性が「ヒラリー・クリントンが大統領になっても、ドナルド・トランプが大統領になっても同じ」、「私はP****(女性器の呼称)で投票しない(自分が女性だからというだけで女性候補に投票しない)」といったことを誇らしげに語るのを何度か耳にした。「ロー対ウェイド判決」をリアルタイムで体験していなかった若者にとっては、女性の権利が剥奪される「The Handmaid’s Tale」は「ありえない架空の世界」だったのだ。ところが、トランプ政権になってすぐにアメリカの雰囲気は変わった。そして、たった4年間で超保守の判事が3人も任命されて最高裁は6対3で大幅に保守に傾き、こうして「ロー対ウェイド判決」が覆された。ギレアデはもはや「ありえない架空のディストピア」ではない。

「ロー対ウェイド判決」を覆す判断に引き続き、テキサス州の小学校銃乱射事件(5月24日)で21人が殺された直後にもかかわらず、最高裁は6月23日、銃携帯の権利を広げる判断を下した。次に、気候変動と戦っている環境保護局の権限を制限する判断も下した。近い将来には「同性結婚」と「避妊」が規制のターゲットになるとみられている。

『侍女の物語』の中で、頭にかぶる白い布と体を覆う赤いドレスは「侍女」に強制される服装として描かれる

アメリカのほんとうの力は?

 だが、この深刻な事態は、のんびりしていたリベラルの投票者をようやく目覚めさせてくれる「警鐘」となった。
 NPO団体カイザー・ファミリー財団(KFF)の2020年の世論調査によると、アメリカ国民の79%が「人工妊娠中絶は、当事者の女性と医師によって決断されるべき」という意見だった。他の世論調査でも同様の結果だったので、多くの人々は最高裁が「ロー対ウェイド判決」を覆すまでは「そんなことはありえない」と気楽にかまえていたのだ。そういった人々がようやく「他の権利も奪われるかもしれない」と怯えはじめた。逆に、宗教右派の保守は、大幅に保守寄りになった最高裁に安堵していることだろう。しばらくは何もしなくても、6人の最高裁判事が長年の夢をどんどん叶えてくれると楽観視する人も少なくないだろう。

 今年の11月に行われる中間選挙には、これらの心理が大きな影響を与えることだろう。判決前には民主党が大幅に議席を失うことを予想する者が大半だったが、民主党とリベラル寄りの有権者が戦うモチベーションと情熱を得たことで見通しは変わってきた。ミシェル・オバマ元大統領夫人、サセックス公爵夫人メーガン妃、シンディ・ローパー、ピンク、ビリー・アイリッシュなど数え切れないほど多くの著名人が抗議の声明を出しており、デモで逮捕された女優もいる。社会正義を尊重するイメージを重視する企業はすでに女性の選ぶ権利を支持する姿勢を見せているが、沈黙を守っている企業も少なくない。そんな企業も、優秀な社員を失わないためには、州の法を守りつつも女性の権利を守るという難しいバランスを取らねばならない時が来るだろう。

 最高裁のこの判決は大学進学にも大きな影響を与えている。例えば、音楽などのアート教育で有名なオーバリン大学は全米でもトップクラスのリベラルアーツカレッジであり、思想的にも非常にリベラルであることでも知られる。しかし、人工妊娠中絶が違法になったオハイオ州にあるために、せっかく合格したのに進学を取りやめる学生が出てきて話題になった。「人工妊娠中絶が違法の州の大学には進学しない」「人工妊娠中絶が違法の州の企業には就職しない」という意見がソーシャルメディアにあふれているが、この動きは止まらないだろう。就職と大学進学の問題は大きい。これが今後、政治家への献金の方向性にも影響を与えることだろう。

著者情報

エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家

渡辺由佳里

わたなべ ゆかり

助産師、日本語学校のコーディネーター、外資系企業のプロダクトマネージャーなどを経て、1995年よりアメリカ在住。ニューズウィーク日本版に「ベストセラーからアメリカを読む」、ほかにcakes、FINDERSなどでアメリカの文化や政治経済に関するエッセイを長期にわたり連載している。主幹する「洋書ファンクラブ」では年間200冊以上読破する洋書の中からこれはというものを読者に向けて発信し、多くの出版関係者が選書の参考にするほど高い評価を得ている。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。著書に『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(2017年、晶文社)、『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(2020年、亜紀書房)、『アメリカはいつも夢見ている』(2022年、ベストセラーズ)など。翻訳書に、『毒見師イレーナ』(マリア・V・スナイダー著、2015年、ハーパーコリンズ・ジャパン)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(デイヴィッド・ミーアマン・スコット他著、糸井重里監修、2020年、日経ビジネス人文庫)、『それを、真の名で呼ぶならば』(レベッカ・ソルニット著、2020年、岩波書店)などがある。

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