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「ウクライナ叩き」はなぜ誤りなのか ~大国の侵略と小国の抵抗を同列に見てはいけない

林克明(ジャーナリスト)

 侵略を正当化する根拠として、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大が挙げられることもある。もともと冷戦期にソ連とその同盟国で構成されるワルシャワ条約機構と対峙することを目的としていたNATOだが、冷戦後も解体されず、むしろ中東欧諸国も加盟するようになった。そのため、ロシアは追い詰められてウクライナ侵攻を行ったというのである。
 これについては、侵攻の背景事情の一つとは言えるだろう。実際、NATOや「西側」諸国が清廉潔白というわけではない。だがそれが今回の侵攻が起きた主な理由だと言うのは間違いだ。この侵攻の本質は、プーチン政権による「大ロシア主義」の暴走にある。それはロシア版ファシズム、ロシア版ナチズムに支えられていると言っていいだろう。筆者はこれを、「大ロシア主義の西方拡大」と呼んでいる。
 ソ連崩壊後に自信を失ったロシア国民や支配層の間には、かつてのロシア帝国への郷愁が広がっている。そこから、ウクライナもベラルーシもロシアの一部だとする考えが根強い。「ロシア帝国の復活」を目指すプーチン大統領の思想と行動は、西側や周辺諸国の状況とほとんど関係なく、一貫している。1999年8月16日にプーチンが首相に就任してから2022年2月24日のウクライナ全面侵略開始まで、「プーチニズム」という重機関車が暴走してきたのだ。
 最大のターニングポイントは、二度にわたる「チェチェン戦争」だろう。
 ソビエト連邦崩壊によって超大国から転落したロシアの人たちは自信を失い、経済的にも大混乱していた。
 そうした中、ロシア連邦南部のイスラム教徒チェチェン人たちが独立を宣言し、事実上独立状態となった。その独立をつぶすためにロシア軍は1994年12月、大規模な侵攻を行う。これが第一次チェチェン戦争である。
 だが大方の予想を裏切って、1年8カ月後の1996年8月、実質的にチェチェン側の勝利で休戦協定が結ばれた。大ロシアが、面積が岩手県くらいで人口80万人(侵攻開始時点)のチェチェンに負けたのだから、ロシアの人々のプライドは大いに傷つけられた。特に権力者たちは我慢がならなかった。
 負けた理由の一つは、ソ連崩壊後に言論の自由が拡大したことで、マスコミが戦争の実態を伝えたからである。それにより反戦運動が拡大したことも一因だった。支配層は「我々は民主主義と自由のために負けた」と思った。
 そこに登場したのがプーチン首相である。そしてこの時点から「大ロシア復活」の野望が暴走し始めたのである。
 プーチンはまず、強権的支配体制を確立するための“電撃戦”を実行した。
 1999年8月の首相就任早々、ロシア各地で民間の高層アパートが次々に時限爆弾で破壊され、死者300人を出すテロ事件が発生する。プーチンはこれをチェチェン独立派の犯行だとして、テロリスト殲滅を理由にチェチェンに軍事侵攻した。第二次チェチェン戦争である。首相就任の翌月という早業だった。
 しかし、連続テロ事件に関しては、ひと月前までプーチンがトップだったFSB(ロシア連邦保安庁。旧KGB)の謀略テロではないかとの疑いが強く持たれている。元FSBのアレクサンドル・リトビネンコ中佐、同じく元FSB職員で後に弁護士になったミハイル・トレパーシキンが、実名と顔出しで、「連続爆弾テロはチェチェン戦争を始めるためのFSBによる自作自演だった」と告発しているのだ。

第二次チェチェン戦争にて、ロシア兵に夫を処刑されたチェチェン人女性と子ども。後ろにいるのはロシア兵。2000年2月8日、チェチェンの首都グローズヌイにて。

 

ウクライナ侵攻の原点は第二次チェチェン戦争

 プーチン首相は、第二次チェチェン戦争の開始とほぼ同時に、自分に恭順しない新興財閥を粛清し始めた。財閥はメディアを所有していたので、自動的にメディアがプーチンの支配下となった。さらに真実を追求する記者が何十人も暗殺され、人権活動家、反体制政治家が次々に暗殺されていく。ロシア国内だけではなく、外国に逃げた元諜報員らも「裏切り者」として抹殺されていった。
 チェチェンへの侵攻は、このような恐怖支配と同時に行われた。翌2000年2月には首都グローズヌイの制圧が宣言され、その翌月にプーチンは大統領選で圧勝する。つまり、現在のプーチン大統領の強大な権力基盤は、第二次チェチェン戦争なしにはあり得なかったのだ。
 私は侵略に抵抗するチェチェン現地を16回訪れ、取材を重ねた。そのときに見聞きしたことも踏まえて言えば、ウクライナ侵攻の原点はこの第二次チェチェン戦争にあると言ってよい。そしてロシアは、チェチェン戦争で行った残虐行為を、ウクライナでも同じように繰り返している。
 チェチェンでは、ロシア軍は独立派武装勢力との正面衝突を限定する一方、民間人を対象に空爆、砲撃で殺害していった。掃討作戦では、武装勢力がいない丸腰の村だと分かると一軒一軒捜索し、武器を発見したり若者を見つけたりすれば、武装勢力の一員だとして家族や近所の人も皆殺しにもした。
 サマーシキという村では、地下室に隠れていた女性や子どもに対して手りゅう弾を投げ込んだり、一斉射撃を行うなどして200人近くを虐殺した。こうした行動は、ウクライナで行われたブチャの虐殺に受け継がれている。
「人道回廊」という言葉も、私には恐ろしい響きを持つ。チェチェンでは、住民の脱出路を確保するとして設けられた「人道回廊」におびき出された住民が、ロシア軍の戦闘ヘリコプターで朝から夕方まで数回にわたり攻撃を受けて惨殺された事件があった。ウクライナでも同じことが起きている。
 何といっても、注目すべきは「選別収容所」(フィルター・ラーゲリ)に住民を連行し、パルチザンか否かを選別するために拷問していたことだ。多くの人が突然逮捕されて、そのまま姿を消し、いまだに行方不明のままだ。
 家族を連れ去られた人々はチェチェンやロシア中を探し回り、運よく見つかれば身代金をロシア当局に支払って解放してもらえる場合もあった。また、収容所内で死亡した場合は、遺体引き取り料を要求された例もある。
 この選別収容所も、ウクライナのロシア占領地に出現している。
 第二次チェチェン戦争からウクライナ全面侵攻に至る22年間の経緯については、拙著『増補版プーチン政権の闇』(高文研)をぜひ参考にしていただきたいと思う。
 チェチェン戦争、特にプーチンによる第二次チェチェン戦争の残虐ぶりを世界が見逃した帰結が、ウクライナ全面侵攻と言っていいだろう。

 

どこの国であれ、大国の侵略を許してはならない

 今ウクライナで起きている戦争は、「どっちもどっち」とか「喧嘩両成敗」といった言葉で片付けるべきものではない。大国による一方的な侵略戦争と、それに対する抵抗なのである。抑圧された者の自由と尊厳、命を守る戦いだ。ウクライナの抵抗を貶めるのは、日本の侵略に命がけで抵抗した中国や朝鮮の民衆、あるいは米軍に立ち向かったベトナムの民衆を貶めるのと同じである。
 大切なのは、大国の横暴を許さないことだ。アメリカの侵略も許されるべきではないし、ロシアの侵略も許されるべきではない。中国だろうが日本だろうがイギリスだろうが同じことだ。
 国際社会では大国の横暴を許さず、国内では少数者への抑圧を許さないというゆるぎない思想が今、必要なのだと思う。小学校高学年でも十分に分かるはずのこの考え方を、今さらながら確立しなければならない。

著者情報

ジャーナリスト

林克明

はやし まさあき

1960年生まれ。業界誌記者、週刊現代記者を経てフリーに。95年からチェチェン戦争を取材。第一作『カフカスの小さな国』で小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。近刊に上記受賞作の増補改訂版『ロシア・チェチェン戦争の628日~ウクライナ侵攻の原点に迫る』(清談社Publico)、著書に『増補版 プーチン政権の闇~チェチェンからウクライナへ』(高文研)、『戦地に生きる人々』(集英社新書・共著)、『不当逮捕 築地警察交通取締りの罠』(同時代社)、『渡辺てる子の放浪記』(同時代社)、『秘密保護法~社会はどうかわるか』(共著、集英社新書)など多数。

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