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社会問題

「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか

いま私たちが積み重ねるべき言動について

荒井裕樹(二松學舎大学准教授)

 私なりに解説すると、横田の「怒り」には二つの特徴がある。
 一つは「共生のために怒ったこと」だ。障害者も街で暮らしたい。親や施設職員に人生を決められたくない。隣近所の子と同じ学校に行きたい。恋もしたいし、結婚もしたいし、子どもも育てたい。皆が「普通」にしていることから障害者を排除するな。一緒に生きさせろ。横田の怒りは単純明快だった。
「怒り」と「憎悪」は違う。「怒り」は相手の存在を認め、自分と相手がつながっていることを前提とした感情だが、「憎悪」は相手の存在を拒絶する感情だ。「怒り」には葛藤があるが「憎悪」に葛藤はない。
 横田は差別に無自覚な「健全者」に怒ったが、「健全者なんかいなくなればいい」とは言わなかった。彼は自分たちの尊厳を傷つけた者に対して怒ったが、その者と生きていくために怒っていた。
 もう一つの特徴は「空気を読まなかったこと」だ。車椅子がバスの乗車拒否にあえば、抗議のために仲間とバスを占拠した。「養護学校」(現・特別支援学校)の義務化に反対して、デモや座り込みを強行した。そんな横田らの主張は嫌われた。「過激派」「エゴイスト」「生意気」「恩知らず」と罵られた。それでも横田らは街に出て、差別するなと訴えた。
 横田も、彼の仲間も、元々は「普通の障害者」だった。幼い頃から「愛される障害者」であれと教えられ、世間に迷惑をかけまいと生きてきた。しかし、どれだけ努力しても、社会は障害者を受け入れないことに絶望して「闘う障害者」になった。
 弱い立場の者は、どれだけ緻密に「空気」を読んでも苦しめられるだけ。だとしたら、虐げられている者は、自分の生命と尊厳を守るために怒らねばらない。横田の「怒り」は痛快だった。
 いま、横田弘や「青い芝の会」が再注目されているのは、そんな「怒り」へのある種の“憧れ”があるのではないか。自分よりも圧倒的に力ある者に立ち向かった横田たちに、「怒り」へのヒントを求めている人たちがいるように思えるのだ(注2)。

数十年後の社会のために

 私たちの社会は、いま、かなり不気味な状態にある。困窮者へのバッシングにせよ、マイノリティーへのヘイトせよ、人が人の尊厳を傷つけることへの心理的なハードルは確実に低下している。「相模原事件」も、このような文脈の中で受け止めなければならない。
 ただ、そういった状況に「怒りたい人」や「怒りをわかちあいたい人」も、やはり一定数いる。その「怒り」を孤立させてはいけない。
 数十年後の社会がどんな姿形をしているかは、いま私たちがどういった言動を積み重ねるかによって決まる。だとしたら、「相模原事件」に怒らなくてよいのか。私たちの次の世代が「障害者の生命と尊厳のため」にまっとうに怒れるかどうかは、いまの私たちにかかっている。

(注1)以下の記述に関して、詳細や具体的な事例に関心のある人は、拙著『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(11年、現代書館)を参照してほしい。
(注2)横田弘に興味のある人は、次の拙著も参照してほしい。『差別されてる自覚はあるか――横田弘と「青い芝の会」行動綱領』(17年、現代書館)。

著者情報

二松學舎大学准教授

荒井裕樹

あらい ゆうき

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(書肆アルス、2011年)、『障害と文学』(現代書館、2011年)、『生きていく絵』(亜紀書房、2013年)、『差別されてる自覚はあるか』(現代書館、2017年)、対談集『どうして、もっと怒らないの?――生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(現代書館)などがある。2022年、第15回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

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