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社会問題

凄惨な事件をどのような言葉で語るか~相模原事件と「一人で死ね」をつなぐもの

丁寧さを欠いた「死を語る言葉」が広まっていくことについて

荒井裕樹(二松學舎大学准教授)

「7月26日」の記憶

 2016年7月26日に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」(以下、相模原事件)から3年が経とうとしている。被害者やその家族・遺族には、なおも癒えない傷を抱える方が少なくないだろう。
 犠牲となった方のご無念を思い、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。
 一方、この事件を追いかける記者や学者たちからは、すでに昨年(18年)あたりから、記憶の風化を懸念する声が漏れている。19名もの命が奪われた凶悪な事件が、わずか2~3年のうちに風化してしまう事態を、私たちはどのように受け止めればよいのだろう。
 もちろん、7月26日に「だけ」、この事件を思い起こせばよいわけではない。しかし、この日に「さえ」、思い起こされないなどということがあれば、それはまさに記憶の風化に他ならない。
 あの事件が今後、社会にどのような影響を及ぼすのかについて考え続けている私にとって、昨年の「7月26日」は本当につらい一日だった。
 この日、オウム真理教元信者6名の死刑が執行された。死刑制度そのものの是非をここで論じることはできない。また、かつての凶悪犯罪を擁護するつもりは微塵もない。しかし、わずか2年前、おぞましい犯罪によって「死」が重ねられた日に、極めて異例とも言える6名の死刑が執行されたことに、酷いめまいを覚えたのだ。
 これに先立つ7月6日には、すでに7名の死刑が執行されていた。その際の報道のあり方(例えばテレビの情報番組では、執行に至る過程がまるで「実況中継」されていた)に強い違和感を覚えていた私は、重ねて6名死刑執行の報道に接し、しばらく感情の整理がつかなかった。
 人の「死」に関わることへの「畏れ」や「ためらい」といった感覚が、社会から、メディアから、言論空間から、急速に失われつつあるように思えてならない。そうした心理的な規制が摩耗していく状況が、不気味でならない。

 

「死ぬなら一人で死ね」

 本年5月28日、神奈川県川崎市登戸駅付近で起きた「川崎殺傷事件」の報道に接し、こうした懸念を改めて強くしている。
 私自身、犠牲になった外務省職員と同じ歳であり、命を奪われた児童と近い年齢の子どもがいる。決して他人事とも思えないし、無関心でもいられない。
 この凄惨な事件を起こし、自ら命を絶った犯人は、長らく「ひきこもり」と言われる状態にあったと報じられている。事件そのものには猛烈な怒りが湧いたが、犯行時の年齢とかけ離れた写真が出回る様子には驚きを禁じ得なかった。当該人物は、どれほど社会と隔絶した状況を生きていたのだろう。
 この事件をめぐっては、犯人に対する「死ぬなら一人で死ね」というフレーズが物議を醸し、大きな議論となった。一方には、被害者やその家族・遺族の心情を思えば当然の表現だという意見があり、他方には、こうした言葉が「ひきこもり」と呼ばれる状況にある人々への偏見を助長し、更なる絶望へと追い込むとの懸念が示された。
私自身、あの犯行は卑劣そのものであり、許しがたい凶行だと思う。被害者の無念をおもんぱかれば、胸をかきむしりたくなる思いが湧き上がる。しかし、それでも、それでも、「死ぬなら一人で死ね」というフレーズには、どうしても看過できない不気味さが潜んでいるように思えてならないのだ。

卑近な嫌悪感は、卑俗な正義感をまとう

 私は文学者として、「激しい言葉による感情表現」を無下に否定できない。そうした言葉を使わざるを得ない文脈や事情をこそ読まねばならないからだ。
 したがって、もし仮に、加害者を憎む言葉が被害者の私怨から吐露されたとしたら、私はそれを否定できない(私自身、理不尽な犯罪に巻き込まれたら、そうした私怨を吐露するだろう)。静かに、深く、その苦しみを推し量りたいと思う。
 しかし、今回騒動となった「一人で死ね」というフレーズは(あるいは、このフレーズがSNSなどで拡散したという現象は)、こうした私怨に根付いたものとも思えない。果たしてこの言葉は、誰の、どのような「怨」が焚き付けたものなのだろう。
 この問題を考える際に思い浮かぶのは、かつて障害者差別と闘った脳性マヒ者による障害者運動団体「青い芝の会」である。
 彼らは「障害者は生きていても可哀想」「障害者は施設で生きた方が良い」という発想そのものが差別だと叫んだ。こうした発想は、一見「愛と正義」の体裁をとってはいるが、その裏には、障害者への卑近な嫌悪感が隠れていることを喝破したのである。
 「青い芝の会」の問題提起を私なりに咀嚼して言えば、卑近な嫌悪感は、往々にして、卑俗な正義感をまとって現れるということになるだろう。
 このことを念頭に置きつつ、SNSに溢れた「一人で死ね」という言葉を振り返ってみると、やはり、陰鬱な疑問を抱かざるを得ない。
 あれらは純粋に、「被害者感情の擁護」から発せられたものだったのだろうか。そこに冷たく鋭利な感情が混じっていなかったと、本当に言えるだろうか。
 ここで言う冷たく鋭利な感情とは、「役に立たない」「迷惑になる」として排除された者への嫌悪感であり、また、誰かのことを「役に立たない」「迷惑になる」という言葉で切り分け、自身から遠ざけたいとする忌避感である。
 「死ね」という言葉にも様々な含みやニュアンスはあるだろうから、「死ぬなら一人で死ね」というフレーズ自体が、そのまま「殺意の表明」であるとは言えない。
 しかし、もしもその「死ね」という言葉に、特定の人々への嫌悪感が混じっていたのだとすれば、そのこと自体が恐ろしくないはずはなく、そうした言葉が目に見えるかたちで飛び交う状況が、異様でないはずがない。
 こうした言葉がさしたる抵抗感もなくメディアに載り、広がり、降り積もっていけば、この社会はますます、人の「死」に対して、無遠慮で、配慮のないものになっていくだろう。

「自分は『裁く側』にいる」という感覚

 今回の騒動で飛び交った「死ね」という言葉は、漠然としたマジョリティ感覚から発せられていたように思う。その正体をはっきりと名指しするのは難しいが、強いて言うなら、「自分は無条件に『誰かを裁く側にいる』という感覚」である。
 こうした感覚がSNSばかりでなく、今回の火元の一つになったテレビ(特に情報番組)などでも目につくようになり、とても気になっている。
 かつて情報番組で意見を述べる人と言えば、複雑な事情を解説できる学識経験者か、異なる視点を提供できる報道関係者が主であった。しかし、いつしか、「情報の整理」や「異なる視点の提供」よりも、漠然としたマジョリティ感覚を「個人的見解」という体裁で言語化する人物が目立ってきたように思う。
 そのような人物たちから時折こぼれる「~というのが世間一般の考えだと思いますよ」といった類いの物言いが、私には気になって仕方がない。こうした発言は、「個人的見解」を装いつつ「世間一般の価値観」を代弁し、「世間一般の価値観」を伝える体裁で「個人的見解」を開陳していて、不信感を抱かざるを得ないのだ。
 この論法で発言する限り、人はいくらでも責任を回避できる。自身の「個人的見解」に差別的な要素が含まれていたとしても、それは「世間一般の価値観」を代弁しただけなのだから自分という一個人に責任はない、ということになるからだ。
「一人で死ね」にせよ、あるいは「不良品」(※)にせよ、公的な言論空間に飛び交う「死」や「命」への丁寧さを欠いた発言の背景には、こうした「感覚」が潜在しているように思えてならない。
 個人が私的に発信できるSNSに対して、テレビは組織で運営され、指示系統やチェック体制が存在する。その意味でSNSとテレビはまったく違う。にもかかわらず、近年、両者から発せられる言葉は不気味に均質化しつつある。
 今回の騒動は、こうしたテレビが深く関わったということを、私たちは危機感をもって受け止めた方がよい。私たちが目の当たりにしているのは、SNSだけでなく、テレビというマスメディアからも「凄惨な事件の詳細を伝えつつ、人の死を丁寧な言葉で伝える力」が失われゆく様子なのかもしれないのだから。

「生きる権利」は「一つの意見」なのか

著者情報

二松學舎大学准教授

荒井裕樹

あらい ゆうき

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(書肆アルス、2011年)、『障害と文学』(現代書館、2011年)、『生きていく絵』(亜紀書房、2013年)、『差別されてる自覚はあるか』(現代書館、2017年)、対談集『どうして、もっと怒らないの?――生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(現代書館)などがある。2022年、第15回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

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