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社会問題

凄惨な事件をどのような言葉で語るか~相模原事件と「一人で死ね」をつなぐもの

丁寧さを欠いた「死を語る言葉」が広まっていくことについて

荒井裕樹(二松學舎大学准教授)

 ここで冒頭の相模原事件に、いま一度、立ち返りたい。
 相模原事件は、犯行そのものの残忍さもさることながら、容疑者を凶行へと駆り立てた歪んだ価値観も衝撃的であった。そして、障害者の尊厳を蔑ろ(ないがしろ)にする容疑者の価値観に対して、「わからなくもない」といった意見から、積極的な賛同・称賛まで、「同調」の声がSNSに湧き上がった点も衝撃であった。
 あの頃、本当に体調を崩したり、外出に恐怖感を覚えたりした障害者たちが少なからずいたということを知ってほしい。
 この事件も、来年1月から裁判員裁判での公判がはじまる。法廷で、被告がどのような供述をするのかはわからない。憶測で何かを語ることは慎まなければならない。しかし、私にはどうしても拭いきれない懸念がある。
 もしも公判中、被告が犯行前後に発信していたような、障害者の尊厳を蔑ろにする発言が繰り返され、それがメディアによって乱雑に報じられたとしたら、再びSNS上に忌まわしい「同調」の言葉が広がるのではないか、という懸念である。
 もちろん、裁判の様子が報道されないなどということがあってはならない。裁判を通じて、私たちはこの事件の詳細を知り、同じような悲劇が繰り返されないために必要なことを考えなければならない。
 しかし、「障害者の尊厳を奪った事件の詳細を伝えつつ、殺害された障害者の尊厳を守る力」を、すべてのメディア関係者が有しているとも思えない。むしろ、昨年7月の死刑報道や、今回の「一人で死ね」騒動を見ていると、どうしても悲観的な想像をしてしまう。
 まさかとは思うが、相模原事件の被告が障害者の尊厳を否定する発言を法廷で繰り返したとして、それに対して「『障害者にも生きる権利がある』といった意見もある」などといった類いの、気味の悪い両論併記が報道されないことを切に願っている。
「誰にでも生きる権利がある」とは普遍的な価値なのであって、併記されるべき「一つの意見」などではない。もしも、このような両論併記がなされたとしたら、この社会には「一つの意見の範囲内でのみ、生きていてもよい人(生きることを許される人)がいる」ということになる。
 本当にそれで良いのか。

 凶悪な事件には、「社会の歪みの現れ」としての側面が必ずある。したがって、そうした事件について考えることは、私たちが生きる社会そのものを見直すことに他ならない。また一方で、凶悪な事件が「どのような言葉で語られるか」が、その後の社会の「言葉のあり方」を決めていくことになる。
 いま、この社会には、「『生きる権利』や『生きる資格』の有無を、無自覚かつ無遠慮に裁く言葉」が溢れている。こうした言葉の氾濫に与するのか。抗うのか。私たちは決して大げさではなく、分かれ道にいる。

著者情報

二松學舎大学准教授

荒井裕樹

あらい ゆうき

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(書肆アルス、2011年)、『障害と文学』(現代書館、2011年)、『生きていく絵』(亜紀書房、2013年)、『差別されてる自覚はあるか』(現代書館、2017年)、対談集『どうして、もっと怒らないの?――生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(現代書館)などがある。2022年、第15回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

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