「原発さえなければ」の遺言から10年~酪農家の夫に先立たれたフィリピン人妻と子どもたちのいま
水谷竹秀(ノンフィクションライター)
損害賠償請求訴訟は、あるドキュメンタリー映画監督から提案されて実現した。バネッサさんを主人公にした映画の撮影も同時に進められていたが、監督との間で金銭をめぐるトラブルが起こり、関係が決裂(詳細は2015年11月発売の雑誌「新潮45」掲載の拙稿)。監督不在のまま、審理が始まった。
争点は、原発事故と自殺との因果関係。バネッサさん側と東電の主張はかみ合わず、平行線をたどったが、提訴から2年半後の2015年12月、和解に至った。東京地裁の会議室で行われた会見では、私の通訳を介して、バネッサさんは涙ぐみながら語った。
「今は嬉しさと悲しさの2つの気持ちがあります。嬉しいのは、少しのお金が手に入り、子どもの将来に役立てられること。悲しいのは、私の夫はもう二度と生き返ることはなく、私たちのサポートができないことです」
バネッサさんは洟をすすり、その場で号泣した。
「日々の人生において、夫との幸せだった瞬間を忘れることはできません。夫がいないのも私の人生ですが、でも私には子どもがいて、育てていかなければいけません。だから子どもたちのために、今後も生きていきます」
力強い決意表明に、会場から拍手が湧き上がった。
この直後、私が東電の広報室に電話で取材を申し込むと、応対した男性は次のように答えた。
「当社事故により福島県民の皆さまを始め、多くの皆さまに大変なご迷惑と心配をお掛けしていることについて、あらためて心からお詫び申し上げます。また、重清様がお亡くなりになられたことについて、心よりご冥福をお祈り致します。訴訟の詳細につきましては、個別の訴訟に関わることなのでコメントを差し控えさせて頂きます」
原発事故と自殺の因果関係が争われた裁判の判例は、私が調べた限り、バネッサさんを含めてこれまでに4例ある。バネッサさん以外の3例は原告が日本人で、東電の幹部が彼らの自宅を訪れて献花し、謝罪をしている。
しかし、バネッサさんの訴訟については、東電幹部からの訪問はなく、メディア向けに用意されたコメントが読み上げられただけだった。
今回、東電広報室の担当者に改めて取材すると、遺族の自宅を訪問しなかったことを認めた上で、その理由についてはばつが悪そうな口調でこう答えた。
「お亡くなりになられた重清様にお詫びといいますか、ご冥福をお祈りするコメントを出させて頂いております。直接出向いて謝罪という形は確かに取れていませんが、そのような形のコメントで謝罪の意といいますか、対応させて頂いています」
訪問しなかった理由の回答になっていなかったので再び尋ねた。
「その点は、ご遺族ですとか原告の方とのやり取りの内容に関わってきますので、我々からの能動的な回答は控えさせて頂きます」
何度尋ねても同じ回答を繰り返すばかりで、なぜバネッサさんの自宅だけ訪問しなかったのか、最後まで分からなかった。コメントが書かれた書面は送ったのか、との問いについても「お答えできません」の一点張りだったが、バネッサさんに確認してみると、彼女のもとには届いていなかった。
琴線に触れた遺言の言葉
東電との和解が成立したことで、重清さんの遺言が書かれたベニヤ板は牧場から取り外された。牧場を相続したバネッサさんの了解を得て、弁護士や訴訟関係者らが「原発の悲惨な実態を後世に伝える」目的で、福島県白河市にある原発災害情報センターで保管されることになった。
牧場は入口からだと、奥行き100メートルぐらいだろうか。とにかく広い。最も奥に、現場となった堆肥小屋がある。壁に書かれた遺言の部分は、新しいベニヤ板に張り替えられ、その痕跡は分からない。以前は供えられていた線香立てもなく、農機具のようなものが置きっぱなしになっていた。今回、墓参の後にそこを訪れた翔太君は、張り替えの経緯を知らなかったようで、「なんで板がなくなっているの?」と首を傾げていたので、私が概要を説明した。
翔太君が遺言を初めて見たのは、重清さんの自殺の直後だった。まだ幼稚園児のため、何が書いてあるのか分からなかった。小学4年生の夏に私と会った時には、父親の死についてこう語っていた。
「お父さんは、住民を原発から守ろうとして死んじゃったの。それでチョークでこう書いてあったんだよ。『原発さえなければ』って。俺見たよ。原発作った人には死刑を言い渡したい。だってさ、人の命亡くしたんだよ。それでさ、原発作った自分は普通に生きているんだよ。人の命が消えているのにさあ、自分は普通に生きているって何かおかしいと思うよ」
その言葉には、子どもながら理不尽への怒りが感じられた。
そして中学校の卒業を間近に控えた翔太君に今、あらためて父親の遺言について尋ねてみた。
「見た記憶少ししかないからな。ネットとかで記事がたくさんあるから見てみたけど、こんなふうに書いてあったんだと。全部意味が分かったのはここ最近かな」
そう語る翔太君は、しんみりした表情でこんな思いを口にした。
「お父さんは責任感つええんだなって。『なにもできない父親でごめんなさい』って」
しばらく沈黙が流れた。
遺言の中でも、その言葉が特に琴線に触れたのだろう。原発を糾弾するというよりは、父親の心情に寄り添った気持ちだ。人間は成長とともに、事象や出来事に対する受け止め方や解釈の仕方が変化する。もっと大人になれば、父親の自殺について、あるいは原発についての考えが今以上に整理され、やがて固まっていくだろう。その時翔太君は、どんな言葉で表現するのか。
かつて約40頭の牛が飼われていた牛舎はがらんとして、水を打ったように静まり返っていた。牛と牛の間を仕切る鉄棒は、さび付いて赤茶け、壁の板もすっかり古びて、老朽化が進んでいた。鉄棒に取り付けられた小さな黒板には、「配合」「ビート」「ヘイキューブ」と手書きされた白いチョークの文字が残されたまま。飼料の専門用語で、恐らく、重清さんの字だろう。

かつて約40頭の牛がいた牛舎はがらんとして静まり返っていた
そこから歩いて約1分のところにある2階建ての一軒家には、かつて一家4人が暮らしていた。現在は空き家になっているが、家の中は蜘蛛の巣やほこりだらけだった。
台所の食器や調味料、お風呂場の水鉄砲、洗面台の歯磨き粉、食器棚に貼られた小学校の予定表、衣類の入った段ボール箱……。4人が生活していたことを示す雑貨や家財道具はまだ残されており、そんな部屋をひとつひとつ確認しながら、バネッサさんが言った。
「使われていないのがもったいないよね」
翔太君も懐かしくなったのか、ドラえもんのぬりえを手に取って眺めていた。
私たちがいる家の中は、あの日から時計の針が止まっているかのようだった。
交錯する母国と子どもへの思い
翔太君は春から高校に進学する。年子の長男は、県内の進学校に通う高校2年生で、部活のサッカーに打ち込む忙しい日々だ。
そんな子ども2人とバネッサさんは現在、家賃3万6000円の平屋住宅で暮らす。重清さんの死後に引っ越してからずっとそのままだ。バネッサさんはこれまで、ラーメンの製造工場やホテルの清掃などの職場を転々としてきたが、現在は老人ホームでの介護職に落ち着いた。入浴介助や食事の補助などだ。おばあちゃんっ子だったからか、仕事の話になると、顔がパッと明るくなった。
「仕事楽しい。じいちゃん、ばあちゃんの面倒みるの大好き。私はご飯食べさせたりするのが上手だって。バネちゃんいないと困るって言われる」
週末はスナックでも働く。介護の仕事だけではやっていけないためだ。昨年秋ごろからは、新型コロナの影響で夜間の仕事ができなくなった。東電から支給された和解金は、フィリピンにいる母親や親族に家を購入したため、手元にはほとんど残っていない。それでも知人に借金を申し込まれ、貸したけど返ってこないと嘆く。遺族年金や児童手当も支給されるが、食べ盛りの子どもの食費を考えると、生活はギリギリ。おまけに1月半ばには、家の玄関で転倒し、右足を怪我したため、仕事をしばらく休んだ。家賃も滞納してしまった。
「私の人生大変。コロナのせいで夜の仕事できない。シングルマザーは楽じゃないよ、ホントに。でも頑張るしかない」
いつもの口癖がまた出た。
著者情報
ノンフィクションライター
水谷竹秀
みずたにたけひで
1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。新聞記者やカメラマンを経てフリーに。2004~2017年にはフィリピンを拠点に活動する。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。ほか、著書に『脱出老人』(2015年、小学館)、『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(2017年、集英社)、『ルポ 国際ロマンス詐欺』(2023年、小学館新書)がある。