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社会問題

個人は国家に抗うことができるのか ~「『モナ・リザ』スプレー事件」を追う

荒井裕樹(二松學舎大学准教授)

 女性は「軽犯罪法違反(1条31号悪戯による業務妨害)」で起訴され、最終的に東京高裁で「科料3000円」の判決が確定した。一部には有名な逸話だが、彼女はこの3000円をすべて一円玉で支払った。
 この事件は、こうした突飛なエピソードばかりが注目され、いわば都市伝説的な興味関心で語られてしまうこともあった。だが、裁判の資料を読み解き、被告となった女性の言葉を拾い上げていくと、ここには「差別」と「抵抗」をめぐる根源的な問いが含まれていることに気付かされる。
 文化庁(つまり政府)が主催する絵画展で障害者が排除された。そのことに障害者本人が怒り、やむにやまれずに起こした抗議行動は、法律で「悪戯」と裁くことができるのだろうか。
 国家が障害者を差別し、それに対して障害者が抗議行動を起こした際、司法はそれを「犯罪」として裁けるのだろうか。裁けるとしたら、国とは、社会とは、司法とは、一体何なのだろうか。
 被告となった女性は、法廷で次のように主張している。障害者が排除されているのは「モナ・リザ展」だけではない。この国は、この社会は、あらゆる場面で障害者を排除している。実際、当時の政府は「障害者が産まれてこないこと」を目指して優生保護法まで改悪しようとしていた。それに抗議する自分の行動は「悪戯」という「犯罪」なのか。
 結果的に、女性の行動は「軽犯罪法違反」の「悪戯」と認定され有罪となった。彼女が科料をすべて一円玉で支払ったのは、「自身の抗議行動を『悪戯』と断罪されたことへの抗議としての悪戯」だったのかもしれない。
 こうした「したたかさ」と「しぶとさ」にこそ、ウーマン・リブの魅力があると私は考える。だが、当時も現在も、「従順でない女たち」は往々にして嘲られ、ネタとして消費され、その言動の根底に流れる葛藤や情念が真剣に省みられることは少ない。
 約半世紀の時間を経て、あらためて思う。「『モナ・リザ』スプレー事件」とは単なる「悪戯」だったのか。裁かれる「犯罪」だったのか。裁かれるべきは、本当にあの女性だったのか。事件を突飛なエピソードとしてのみ消費し、真っ正面から受け止めなかったこの国は、この社会とは、一体何なのか。

◆◆◆

 2022年のいま、ロシアによるウクライナ侵攻を機に、新たな世界戦争の懸念が決して拭いきれない不安として立ちこめつつある。
 メディアでは連日、ロシア国内での徹底的な情報統制と、抗議行動への冷酷な弾圧の様子が報じられているが、こうした「国家に抗う個人」への弾圧が、私には到底「対岸の火事」とは思えない。この10年ほどの日本国内における政治状況を顧みれば、恐怖感を抱かずにいることの方がむずかしい。
 個人は国家に抗えるのか。個人は国家を糾せるのか。「個の力」で国家は止められるのか。小さな個人が大きな国家に抗うことに意味はあるのか。いま極めて切実に、こうした点が問われている。
 「『モナ・リザ』スプレー事件」は、こんな状況だからこそ、今一度、考えるべき出来事であったように思われる。

*「『モナ・リザ』スプレー事件」の詳細と、この女性が歩んだ人生の軌跡、そしてウーマン・リブの活動については、新刊『凜として灯る』(現代書館より6月刊行予定)で詳述した。あわせてお読みいただきたい。

著者情報

二松學舎大学准教授

荒井裕樹

あらい ゆうき

1980年、東京都生まれ。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て現職。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『隔離の文学』(書肆アルス、2011年)、『障害と文学』(現代書館、2011年)、『生きていく絵』(亜紀書房、2013年)、『差別されてる自覚はあるか』(現代書館、2017年)、対談集『どうして、もっと怒らないの?――生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(現代書館)などがある。2022年、第15回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞。

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