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『鬼滅の刃』を読む(2)~悲しく虚しい鬼たちは悪なのか

杉田俊介(批評家)

 あるいは鼓鬼の響凱〈きょうがい〉は、人間時代には小説を書き、また鼓を趣味にしていましたが、君の小説は「つまらない」、「君の書き物は全てにおいて塵(ごみ)のようだ」、鼓も人に教えられる腕前でない、云々と散々馬鹿にされていました。そのためか、響凱の中にあるベーシックな欲求は、自分の書いた小説を、あるいは自分の人生を誰からも「踏みつけ」にされたくない、というものでした(第25話)。
 だから、響凱は炭治郎に敗北してチリに還りますが、炭治郎が彼の小説の原稿用紙を踏みつけにせず、「君の血鬼術は凄かった!!」と称賛したことに満足の心を覚え、「小生の……書いた物は……/塵などではない/少なくともあの小僧にとっては踏みつけにするような物ではなかったのだ/小生の血鬼術も……鼓も……/……認められた……」(第25話)という安らぎの中で消滅していくことになります。

 先ほども述べたように、他者を決して「踏みつけ」にしてはならない、どんな理由や正義の名のもとにであれ他者を「塵」のように扱ってはならない、というのは『鬼滅の刃』の倫理観の基礎部分であり、極めて重要なものです。

 そして、下弦の伍、蜘蛛鬼の累。累は生まれつき体が弱く、自分の足で走ったことがなく、歩くのすら苦しかったと言います。しかし無惨と出会い、鬼としての強い体を手にしました。累の両親は、そのことを喜びませんでした。我が子が人を喰う存在になってしまったわけですから。

 累はもともと、「本物」の親子の「絆」に強く憧れていました。川で溺れた我が子を助けるために死んだ親がいた、という昔聞いた「素晴らしい話」に感動した、と累は言います。子どものための自己犠牲。それこそ本物の親の愛であり、真実の家族の絆である、と。ところが、鬼になって人を喰った累を、両親は殺そうとします。累は両親を逆に殺します。そして「偽物だったのだろう/きっと俺たちの絆は/本物じゃなかった」と絶望します(第43話)。
 ところが累は、自らの手で両親を殺してしまってから、唐突に次のことを理解します。両親は、累が人を殺した罪を背負って、一緒に死のうとしてくれていたのだ、と。つまり、累は「本物の絆」を自分の手で切ってしまった。そして自分の行為に精神的に耐えられず、記憶をすべて封印し、自分より弱い鬼たちを支配し、家族ごっこをしていた。 

 ここでもやはり、もっとも大事な人を喪ってしまい、しかも自分が愛する大事な誰かを自分の手で殺してしまったことすら忘れてしまう、そこに鬼という生き物の根本的な悲しさがあり、虚しさがあるのです。しかも炭治郎が述べたように、それは決して他人事ではなく、ちょっとした不幸や悲運があれば、私たちの誰もがそうなっていたかもしれないのです。だからこそそれは悲しく、虚しいのです。

 手鬼のグロテスクな姿形が兄に「手を握ってほしい」という人間時代の欲望を象徴していたように、累の血鬼術である「蜘蛛の糸」は、絶対に切れない本物の「絆」を願ったものである、望んでももう決して手に入らないものの象徴である、と言えます。

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 そして「鬼は人間だった」「俺と同じ人間だった」ということ、自分もまたいつ鬼になっていたかわからないし、これから鬼になるかわからないということ、そのことを累以上に強く読者に印象付けるのは、上弦の陸(ろく)である妓夫太郎〈ぎゅうたろう〉堕姫〈だき〉の存在でしょう。妓夫太郎と堕姫という鬼の兄妹は、炭治郎と禰豆子という人間の兄妹の裏面のようなペアであると言えます。

 妓夫太郎がこの世のすべてを恨んでいる(非モテの陰キャ?)とすれば、炭治郎はこの世のすべてに感謝するような肯定的な人格の持ち主(リア充の陽キャ?)です。禰豆子が鬼になった時、たまたま出会ったのが鬼殺隊の義勇だったため、炭治郎たちは人間にとどまることができましたが、堕姫(人間のときの名前は梅)が全身を焼かれ死にかけたとき、たまたま出会ったのが鬼(童磨〈どうま〉)だったため、妓夫太郎と堕姫は鬼になりました。

 炭治郎たちが貧しくも温かい家族のもとに生まれたとすれば、妓夫太郎と堕姫は、遊郭の最下層で生まれました。妓夫太郎は、生まれる前にも、生まれてからも親に何度も殺されそうになり、枯れ枝のように弱い体でそれでも必死に生き延びました。

 仕事で不在だったため妹の梅を守れなかった(これは猗窩座の宿命と似ています)妓夫太郎は、黒焦げで瀕死の妹の体を抱きしめて、天に向かって絶叫します。「やめろやめろやめろ!!/俺から取り立てるな/何も与えなかったくせに取り立てやがるのか/許さねえ!! 許さねえ!!/元に戻せ俺の妹を!!/でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」(第96話)。

 彼ら兄妹にとって「誰も助けちゃくれない」のは「いつものこと」であり、「いつも通りの俺たちの日常」にすぎませんでした。「どんな時だって全てが俺たちに対して容赦をしなかった」。

 「『鬼滅の刃』を読む」第1回で述べたように、これらの事実は、生まれたときからローンや税金でがんじがらめになり、貧困状態の中からどうしても抜け出せない子どもや若者の人生のようであり、あるいは、社会的な格差や搾取などという以前に、生まれながらにして何もかもを取り立てられているような人生を象徴するものに見えます。人生とはそういうものではないのか、というリアルが『鬼滅の刃』にはあります。

 私たち(現代を生きる大人たち)は、彼らのそうした悲しみ、虚しさ、それゆえの世界に対する憎悪を拒絶し、それは間違っている、と説得することができるのでしょうか。道徳的に正しい言葉によってお説教する、そんな資格が誰にあると言えるのでしょうか。

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 しかし、こうした虚しくも悲しい存在としての鬼たちに対し、先ほど述べたように、『鬼滅の刃』の世界には、「悪鬼」と呼ぶしかない鬼たちが存在します。「悪」としての鬼たち――それは具体的に言うと、沼鬼〈ぬまおに〉魘夢〈えんむ)半天狗〈はんてんぐ〉獪岳〈かいがく〉、童磨、無惨などです(玉壺〈ぎょっこ〉はちょっとよくわかりません)。

『鬼滅の刃』の中で、炭治郎が「悪鬼」と呼んだのは、上弦の肆(し)である半天狗です。炭治郎は半天狗を二度にわたって、「悪鬼」と呼んでいます(第116話と第126話)。「卑怯者」とも言いました。
 半天狗の本体は、ほんの小さな年老いた小鬼であり、いつも何かに怯えて泣いているような気弱な鬼なのですが、これまでにも、窮地に陥ると、自分の中の強烈な感情を人格的に分裂させ(「喜」「怒」「哀」「楽」「憎」等)、それらの鬼に戦わせて勝利してきました。

 しかしこの半天狗は、これまでにも無数の人間たちを殺して食ってきたにもかかわらず、鬼殺隊の隊員たちを「弱き者をいたぶる鬼畜」「極悪人共めら」と批判します。半天狗の心は、強い被害者意識に満ちています(加害と被害、善と悪の感情が「反転」している鬼だ、とも言えます)。

「お前が今まで犯した罪/悪業/その全ての責任は必ず取らせる」と炭治郎が言うと(炭治郎が「悪業」というような強い言葉を使うことは物語の中で数少ない点に、注意すべきでしょう)、半天狗は「儂は生まれてから一度たりとも嘘など吐いたことがない/善良な弱者だ/此程可哀想なのに誰も同情しない」と、依然として、あたかも真空のような完全な被害者意識の中に引きこもり続けます(第124話)。

 炭治郎についに首を切られた半天狗が走馬灯のように思い出すのは、盗みと殺しを繰り返してきたのに、いつも責任から逃れ、それを誰かのせいにし、目の見えないふりをしてまで、たくさんの嘘をつき続けてきた自分の人生でした。それは当時のお奉行によって「薄汚い命」とも罵倒されますが(第126話)、これは珠世が無惨のことを「生き汚い男」(第187話)と罵倒したことと同じくらい強い言葉であり、『鬼滅の刃』の中では重い言葉です。

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 ほかの「悪鬼」たちはどうでしょうか。沼鬼は16歳の娘を好んで殺して喰いますが、この鬼は、女は16歳を過ぎるとどんどん醜く不味くなる、だから喰ってやっているんだ、という論理によって自らの行いを正当化していました。魘夢は、他人に悪夢を見せて不幸な目に合わせるのを、それこそ夢に見るほど好んでいました。

 あるいは善逸の元兄弟子で、のちに鬼になった獪岳は、幸せの器が壊れていて、周りの人間が自分を一番に評価し、特別視しない限り決して満足せず、自分が善逸に負けた瞬間すらも、師匠が善逸だけに特別な技を教えていたに違いない、と責任転嫁する始末です。そして上弦の弐(に)の童磨は、生まれたときから人間らしい喜びも悲しみも感じたことがなく、この世のすべてに対して(自分の死に対してすらも)無感覚で、何らかの感情があるかのように演技し続けてきた鬼でした。

 これらの鬼たちは、『鬼滅の刃』の世界における「悪」です。「悪」とは、先ほど述べたように、自己欺瞞的な存在です。たんに他人を騙して嘘をついているだけではなく、自分自身に対してすら嘘をついているのです! 他人の命や幸福を踏みつけにしても、どこまでも無感覚でいられる存在たち。肥大化した被害者意識を抱え込んでいる存在たち。それは「善悪の相対化」や「人間の原罪」などによっては正当化されない根源的な「悪」なのです。

著者情報

批評家

杉田俊介

すぎた しゅんすけ

1975年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。元障害者ヘルパー。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で文学、アニメ、マンガなどの批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『橋川文三とその浪漫』(河出書房新社)、『男がつらい!』(ワニブックス「PLUS」新書)などがある。

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