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笑いと暴力のはざまで―BPO審議入りからお笑いの今を考える

西村紗知(批評家)

「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」の審議入りを受けて松本人志は、「何でもありになると、実は面白いことってできにくくて。ルールがある程度あって、そのルールのギリギリをわれわれが攻めて面白くしたいなと思うんですけど、前OKやったことが『やっぱりそれもダメ』みたいに後から言われることがあるから、これはどこまでいくのかなとは思いますね」(註2)と語ったという。松本は、お笑い特有の基準の流動性と他律性についてなにか言おうとしているように見える。
 流動性と他律性は、まさに大衆とのつながりという点で、いまやすっかりお笑いにとって足かせに転じてしまった。実際にはそれぞれが別人であるのにBPOが一義的に想定した「青少年」に関して出される意見には、もちろん不当ではないものの文脈への配慮や内在的視座が存在しない。だが、「青少年」でない、我々成人はどうだろう。我々成人は、いつまで文脈への配慮や内在的視座の抜けた異議申し立てをして許されるのだろうか。

 他律的(人任せ)に、その都度状況依存的に対処し続けても、それが自律性(行動や判断を自力で決定すること)に転じることはない。すなわち他律性のみでは自分自身の行動原理の糧にならないということを、「青少年」ではない我々成人は経験則として知っていることだろう。青少年委員会の審議対象としての「お笑い」からお笑いの「表現」の問題に考える対象を移したときに、自律と他律にまつわる問題意識が出てくる。実際、見た目に暴力的かどうかという点にあまりに固執するのは、どこか他律的だ。「暴力的かどうか」という問いは、多くの場合、取り締まったり管理したりする側が立てるものであって、お笑いを自分の楽しみのために見ている大衆一人一人が率先して立てるはずもないだろうから。

お笑いのゆくえ

 一度、お笑いが痛みを伴うかや、お笑いに対する世間からの厳しい風潮を括弧にくくって、お笑いについて一人一人が、文脈を鑑みて内在的に想像してみてもよいのではないかと筆者は思う。
 内在的に想像してみよう。お笑いにとって常に大切であり続けていたのは、大衆のリアルな感覚ではないか。漫才の場面設定であれ、いわゆる「あるあるネタ」であれ、大衆からの共感はお笑いにとって欠かせない素材だ。かつて大手を振っていた暴力的な表現も、それぞれの時点で大衆のリアルな感覚と見えない絆を結んでいたのであって(実際にそれで笑いが生じていたのだから)、結果であり方法のひとつでしかない。
 もちろん、内在的に正当であっても、それは暴力的な表現を肯定する理由にはなりえない。
 だが、次のように想像することも可能だろう。お笑いが暴力的な表現でもって成し遂げたかった目的は、今となっては必ずしも暴力的な表現を必要としないのかもしれない。あるいは、今現在暴力的な表象を用いるお笑いの表現は、かつてとは違った位相にあるのかもしれない。


 そもそも、お笑いにおける暴力的な表現が看過されていたのは、悪や権威に対する反抗の表現となっている場合のみだったと言っても過言ではない。今日の大衆のもとではわかりやすい悪や権威のイメージがもはや無効となっており、SNSでのハッシュタグ運動により、大衆は悪や権威を簡単に屈服させられると錯覚している。こうした悪や権威をめぐる不明瞭さや複雑さは、そのままお笑いから暴力的な表現の根拠をはく奪することとなったのであろう。
 今現在の社会においてかつてお笑いが反抗する先であった悪や権威の居所が見えなくなったとしても、お笑い芸人はそれぞれ主体的に反抗の表現を引き継いでいる。表現の遺産を引き継ぐことからまた、今日の、もはや姿を変えてしまった悪や権威を探しあてることは可能だろう。

「男性ブランコ」の新しさ

 それは、暴力的な表現にまつわるいかなる議論にも引っかからない、「男性ブランコ」という吉本興業所属のお笑い芸人のネタを見ればわかる。
 M-1グランプリ2021の三回戦の彼らのネタを見ると、設定は温泉旅館の客と女将という定番のものだが、「癒し」という現象に対するはっきりとした洞察がネタを貫いている。癒しは、これ自体は悪や権威などとは一切なにもかかわらないが、温泉旅館の女将や他にもセラピストのような癒しにかかわる業種の人々には、どこか形式的に過ぎるところや、一方的なところがある。癒しというのは自足の極致なのだから、他者の視線や存在を欠きがちだ。こうした点にこのネタの表現の核がある。
 特に温泉旅館の部屋の中でくす玉を割り中から「浦井様 歓迎ムード」という文言が出てくるシーンにこの癒しが含む過度な形式性と一方通行性がみてとれる。
後半の露天風呂と食事を女将が案内する件(くだり)から、今度は「癒し」という観念に潜む、自足性が浮き彫りになっていく。これは、温泉の食事にはふさわしくないように見えるチキン南蛮定食――漫才中では、「ごはんを食べたいがためだけの」ということで「ガチ飯」と形容されるが――を登場させることによって可能となる。

 このボケにどうしてこれほど強度が宿るのか、と考えたとき次のことに思い至る。このボケは逆説的なかたちで、「チキン南蛮定食が癒しでないといえようか」という、クリティカルな問いかけを内密に保持しているのだ。この隠された問いにより、「男性ブランコ」のネタは大衆の癒しに対する根拠の曖昧さを照らし出すことに成功しており、このネタにおけるボケは単なる漫才台本内部の逸脱に留まらず、大衆の手元にもある癒しという観念の解体を行っている。
 「男性ブランコ」のこのネタは、かつて暴力的な表現が担っていたものを更新しているように筆者には思える。なんにせよ、彼らのネタから汲み取れる方向性、身近な違和感から反抗の表現を導き出す方法は、お笑いにおいてこれから一層重要になってくるだろう。つまり、暴力的な表現ではできないほど強く、大衆とつながっていく方法として。

著者情報

批評家

西村紗知

にしむらさち

1990年、鳥取県生まれ。東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。東京藝術大学大学院美術研究課芸術学専攻(美学)修了。「椎名林檎における母性の問題」(「すばる」2021年2月号)で「すばるクリティーク賞」を受賞しデビュー。著書に『女は見えない』。そのほかの論考に「グレン・グールドに一番近い場所」(「すばる」2021年9月号)、「お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について」(「文學界」2022年1月号)などがある。

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